ブログ - 20180226のエントリ
昨日の日曜日はカラオケ教室の発表会が、岡垣町サンリーアイで行われた。生徒、および親しい関係のあるカラオケ教室の生徒、指導者たちおよそ150 人が参加し、午前九時から午後五時頃まで歌った。この日のために一年間、教室やカラオケ・ボックスで練習してきた。単なるカラオケではないか?と言われればそれまでだが、参加者のすべてが余生を生きる老人たちであり、(辞世の句)を歌う気持ちがあったにちがいない。
わたしは昨年と同じく、舞台の袖口で歌い手にマイクを渡す係を頼まれた。歌い終わった人に、ご苦労様でした、と言ってマイクを受け取り、舞台に出る人には、お願いします、と言ってマイクを渡した。袖口には二人が出番を待っていて、言葉を交わしたりした。
(わたしは動脈瘤の手術や胃がん、腎臓がん、心臓バイパス手術をして、体中ボロボロなのです。人工血管が体中にたくさん通っていて、いつ切れて、倒れるかもしれません)
と言ったのは薄青色のドレスをまとった老婦人であった。
(それは大変ですね)
と、わたしは驚いた。
彼女は少し不安定な歩き方で舞台に向かい、マイクを握って歌った。
上手に歌いきったことは憶えているがどんな歌詞だったのかまでの記憶はない。
来年も彼女は来るであろうか?いや、自分もここにいるであろうか?
と考えたりした。
(黒いダイヤ)を歌った老男はよくカラオケ発表会で歌う人で、胃がんのため胃を全部切り取った人であったが、力強く歌った。(黒いダイヤ)とは石炭の別称であり、彼は石炭の採掘労働に従事していたと聞いた。
(気合を入れるために思い切り、肩を叩いて下さい)と言われ、気が進まなかったが、叩いた。大学時代、一撃必殺の空手をやっていた。背後から両肩を思い切り、叩かれる、激しい訓練であった。その時を思い出して気が進まなかったのである。
時々、歌謡会で妻が優勝している女の夫がステージに立ち、彼女の訓練が良かったのであろう、上手に歌っていた。彼女はカラオケ教室で私の隣に座っていて、お父さんが上手くなった、と話していた。
わたしは9番目に歌い終わっていた。息継ぎを多くして、声量に余裕をもって感情を入れる、という狙いが当たっていたので満足していた。
(あなたは声は良い。歌は何といっても声ですよ。それに姿勢が真っ直ぐしていて良かった)
お世辞のうまい友達女に言われ、良い気分であった。
(顔は?)
と尋ねると、
(それも良いわ)
と冗談で誉めてくれた。
歌ったのは鏡五郎の(千鳥の舞)である。
(あれも夢です。これも夢。せめて会いたやもう一度。はぐれ千鳥の鳴く声に、忍ぶ都のあの女をー)
この歌詞にはわたしの四十年前の事件ともいえる出来事、そしてあの女への気持ちが込められている。それを今、小説にして書いている。
カラオケ教室での出来事だけでも小説になりそうである。
キリスト教の神父が毎週わたしを訪れ、わたしも日曜礼拝に通って聖書の勉強をしている。聖書は奥が深く,研究に取り込むには良い対象である。かれらは入信してくれとも言わないし、信仰を強要することもない。
わたしは聖書を朗読し、あらかじめ書いてある質問に応える。この文脈では答えはこうなると私が言うと彼らは満足した笑顔を浮かべるが、わたしは時々、突拍子もない質問をする。(飛んでもないことを話しますが、気を悪くなさらないでください)と断り、サタンは神の分身ではないですか?と問うと彼らはしばらく黙り込み、なぜですか?と訊ねてくる。(神の子は人であり、人はサタンであるとあなたたちは言うのであるから、神はサタンであると言う事になるのではないですか?)
その質問に答えは無かった。
(神はソドムとゴモラという淫行と快楽に堕落した街を滅ぼし、ハルマゲドンが起こるといって悪魔に支配された人類を一掃し、新しい世界を作ろうとしている。これは神の行為だから許されるとあなたたちは言うが、人類を滅ぼすのはサタンではなかったのか、神が滅ぼすなんて納得できない!神の行為であれば何でも許されると言う考えは神の名において何でもできる、しても良い、という怖い思想を産むにちがいない。・・オーム真理教や宗教戦争で行われたように)
私続けて言う。(この前、静電誘導の話をしましたけど、エボナイト棒を擦ると、棒の端にプラスかマイナスの電気が生じ、棒をいくら小さく切ってもその状態は消えはしないし、量も一定である。これは神とサタンの関係にも当てはまるのではないか?その電気は性格が異なるわけではなく同じものである。+と?とは量から質への転換に過ぎない。これは神とサタンの関係に似ている。アメリカと北朝鮮の関係にも似ている。戦争への緊張が高まれば高まるほど武器が売れてアメリカは潤い、経済が良くなるのである。もしかするとアメリカは違う形で北朝鮮に経済援助をしているかもしれない)
こんな話をすると、パイロットをしていたと言う神父は考え込んでしまうが、教会での講演をする時には物理の運動の法則を持ち出すようになった。
こんな討論はわたしの思想と聖書の中味がぶつかる良い機会であると、勝手に考えている。