ブログ - 20180225のエントリ
絵画でも写真でもそうであるが、陰影を失うと素材の存在感が無くなり、あるいは薄くなる。近頃、街中でも電車の中でも暴力団、ヤクザらしい者の姿を見なくなった。彼らはサングラスをかけたり、時には腕の入れ墨をちらつかせ、あるいは変わった服装をしたりして人目を引き、ほら、怖いだろう、俺はお前たちとは違う人種なんだ、と誇示していたのだが、野良犬、野良猫、ホームレスが消えたのと時期を同じくして消えてしまった。昔、わたしがNHkの集金の仕事をしていた時、ドアの前から、NHKの受信料のご相談にお伺いしました!と言うと、ちょと待ちない、と部屋の中からこたえ、おもむろにドアを開け、寒い冬にランニングシャツ一枚の上半身に唐獅子牡丹を見せながら、なんな?とわたしの眼を見据えてきたものであった。時には老いて皺の混じった肌の入れ墨を見せたり、半身不随になった老男に会ったりした。わたしは最初は驚いていたが、しだいに怖くなくなってきた。
暴追放のせいで彼らは社会の表面から去ったのであろうが、風俗や歌謡曲、映画、舞台から、(怒り)(反抗)が消えている。街中の人々の表情からも怒り、同時に活気が消えてしまった。怒りは生きる上において大事なことなのである。戦争反対、セクハラ、パワハラ、マタハラは犯罪である、という言葉が暴力の退場とともに増える一方である。
わたしは日本共産党の集会の場でも発言した。あなたたちは戦争反対をいつも訴えるが、軍備はいらないのか?戦争は本当になくなるのか?そこから議論すべきではないか!と。すると、戦争反対は決まったことであるからそれに従うべきである、と返って来たので、(俺はそれに賛成してはいない)と言い返してやった。