ブログ - 201709のエントリ
今(夜)、部屋の三方の窓の外から数匹の鈴虫の鳴き音が起こり、鳴き続けている。庭の楽団みたいに一晩中、鳴き続けるであろう。蟋蟀のコロコロと転がるような鳴き音も混じってくるが、鈴虫の甲高い高貴な音にはかなわない。
何だかロマンチックな気分になるが、また悲哀感が感じられいる。夕食の前にウイスキーを三度、喉を鳴らして飲んで、良い気分だが、心臓に異和感が生じている。5年前に心臓のバイパス手術を受け、退院時に、執刀医から、酒と煙草は絶対駄目ですよ、と告げられていたからだ。酒を飲むと不整脈が出ることは体験していたが、夕食前に酒を飲む癖がついてしまった。
集金の仕事で、宗像市自由が丘を回っていた時のことを思い出した。二か月に一度、その老婆からお金をもらい、世間話をまじえた。勝気な人で世間を批判する会話が多かったが、時々、(死んだが勝ち)言った。その言葉は私の心に張り付いている。死ねばすべての責任から解放される、という意味合いだろう。もう10年前のことになるから、彼女はあの世で(そうじゃない。やっぱり死んだが勝ちだったのよ)を言ってるかもしれない。
死は否定も肯定も出来ない現象である。わたしの心臓が止まったとしてもあの鈴虫、あるいはその子供たちは今のように庭で鳴き続けているだろう。それで良いのだ。
東京で遊学生活をしている頃、街には屋台や角打ちがたくさんあった。屋台でおでんを食べ、コップで日本酒を飲んだ時、その美味しさと雰囲気に魅了された。ある時、コップ酒を傾けていると、隣の席に男の大学生が腰を降ろし、社会問題や政治について話をした。彼は早稲田大学の西洋哲学科に学んでいて、思想的なことで悩んでいたが、解決し、ノイローゼは治ったと言い、トローリー・バスの車内清掃を紹介してくれた。
そのバイトを始めたころ、彼はわたしに、今日はあなたを待ってる人がたくさんいるから、来ないか?と誘い、わたしはある家に行った。十人ほどの男女がいて、宗教の話を始めたが、わたしは自分が勧誘されたことに気づかなかった。
彼はわたしに宗教の機関紙(聖教新聞)を皆の前で読むように言い、わたしは読み始めた。ところがドモリの癖があるので、言葉が時々つかえた。
(皆はすらすら読めるのになぜあんたは、つかえるのか?あなたの先祖が悪いことをしたから因縁がそうさせているのだ)
彼は言い、わたしは戸惑った。
(創価学会に入って、お祈りすれば治るから、入りなさい)
と言って、入会させられた。
わたしはお寺に連れて行かれて金を払い、お札をもらいお祈りをするようになった。疑問が絶えず湧いた。彼は、ご本尊様を信仰すれば何でもできるのです。東大に通ることだった出来る、というがわたしは疑問を持った。受験生の全員が信仰すれば定員の枠を超えてでも合格するのか?そんなことはありえないではないか?
それをと言うと彼は返事が出来なかった。
わたしがお祈りをしなくなると、会員が何度も私の部屋を訪ねてきたが、わたしは断った。わたしの障害を餌に勧誘した彼に腹を立てたと同時に、人生が良くなるなどと合理性の見えないことを言い、皆が日蓮正宗を信じれば世界は救われると言う都合の良いことを言うのが信用出来なかったのだ。
その勧誘は(折伏)と言われ、全共闘活動が盛んな当時、その隙間を縫うように入り込み、今では国会議員も出し、公明党になって自民党の(茶坊主)として、活躍している。政教分離の観点から、さんざん攻撃されたが今、創価学会や公明党のスキャンダルはマスコミに全く出ず、学会員は一時は国民の一割を占めるほどに増えた。スキャンダルを報道したりすれば、報道局や出版社の電話がパンクするほどの電話がかかって来て、妨害されるという話を聞いた。恐ろしいほどの存在である。
当時、28歳の頃、神奈川県相模原市のボロアパートに住んでいた。便所は汲み取り式で風呂もなかった。東京部品工業と言う会社でトラックのブレーキの組み立て作業をしていた。臨時工であった。2交替制だったので、その日は昼間まで寝て、15時頃から出勤するつもりで、布団で寝ていた。
玄関ドアの方で女の声がした。当時、女に縁のなかったわたしは布団の中で不思議に思いながら、ドアの内鍵をしていなかったことを思い出したが、布団から起き出さなかった。
すると、「まだ、寝てんの?起きなさいよう、お日様も出てるじゃない」と馴れ馴れしい声と同時に、二人の中年女が上がり込み、寝床のそばに寄って来た。わたしは驚きながらも、起き上がり、布団を押し入れの中に入れ始めた。
「あーら、こんな時は女を布団の中に引っ張り込むのよ」一人が言った。
わたしは関心を持ったが返事をせず、二人の女に思い当たる節はまったくないことに気づいた。
わたしが電気炬燵を兼ねたちゃぶ台を出すと、女達は当たり前のような顔をして、腰を下ろした。
「生命保険の勧誘なのよ」一人が言い、名刺を差し出した。
わたしは理解し、無礼さの非難はしなかった。
わたしは出勤のことを考えて、台所に行った。
イワシの煮つけを作り、キュウリの酢の和え物をちゃぶ台に置いた。一人の女は「あーら、美味しそうだわね」と言いながら、楊枝でキュウリを摘まみ、食べ始めた。
それから、生命保険の勧誘の話を始めたが、わたしは全く関心がなかった。
女たちは関心のないことを知ると「今度、来た時はお願いね」と言って帰って行った。
彼女らが再び、訪れることはなく、それだけのことであったが、キツネにつままれたような気分が残った。
不法侵入になるになる出来事であるが、当時はそんなことも見逃される時代であった。後に、(枕仕事)と言う言葉を耳にし、その意味がわかるようになった。
今のカラオケ教室に通い始めて3年ほどになるが、私の歌は観客に満足感を与えられるほどに成長しているようだ。そこに入る前の教室は老婆ばかりが20 人ほど居て、姥捨て山みたいな暗い雰囲気だった。男は私一人であったが、男が入ったがために先生が男歌を用意し、彼女らは女歌が一曲しか歌えないようになった、何故あんな男を入れたのかと陰口を叩かれ、会に紹介した女との関係はどうなのか?と詮索された。ところが、会長のなり手がないので私に会長になってくれと前会長から言われ、仕方なく引き受けた。当日、会長申請のため、私の印鑑が必要だった。前会長はそれを私にケイタイで伝えれば良いものをそれをすると、自分と男女関係があるように邪推されと考え、私がカラオケ教室に行った時に、印鑑が必要だということを私に伝え、家に取りに帰らせた。わたしはその会を紹介した女にも印鑑が必要なことをなぜ私に私に電話しなかったのか?と抗議した。そんなことをしたら二人の関係(実は関係はない)が疑われるれると言われ、わたしはついに頭に来て、脱退した。
パソコン教室の講師をしている女先生がカラオケ教室も開いていて、私はそのパソコン教室に通っていた。そんな嫌なことがあった、と彼女に言った。彼女から勧められてそのカラオケ教室に通うようになった。54歳のこの先生は姥桜のカラオけ教室の生徒たちと全く異なり、女性起業家支援の会社を経営し、大学で男女共同参画者の講義を持ち、歌謡界との交流も持っていた。仕事は超多忙で徹夜の仕事が度々あっても元気いっぱいで、しょげているのをみたことがない。
私は前のカラオケ教室で曲をしゃくり上げる癖をつけていたが、彼女はそれを熱心に直してくれた。3年間、かかった。歌ってる時に彼女から肩を思い切り叩かれたり、指で肩を強くつねられたこともあったが、わたしは彼女の熱意であると解釈した。
一年半前、発表会があり、無事に終わった。料亭で、打ち上げをした。飲んで騒ぎ、皆で送迎バスで帰る時のことであった。
(先生、気を付けよう、甘い言葉と夜の道、という言葉を知ってますよね?)と私は尋ねた。彼女は知ってると言った。(先生もその言葉に気を付けて帰って下さいね)というと、(ありがとう。わたしはそんなことを言ってくれるあなたを好きよ)と答えた。
私は酔った勢いで冗談のつもりで次のように言った。
(ただし、先生、帰り道で男を襲わないでくださいね)
私は言い、皆は黙っていた。
彼女は美形でスタイルもよく、舞台では裾弾きの着物などを着、厚化粧をして女心を切実に歌うが、女の色気はあまりない。男のような気性でありながら、魅力的な女でありたいと願っていることがわかる。
そこで、彼女はわたしの皮肉った問いに次のように答えた。
(わたしは男みたいだとよくいわれますが、仕事のために女を捨てたのです)
彼女言った。
私は納得したが、男と女がいっしょに仕事をすることがいかに難しいかを知った。
今日の新聞、テレビ、ネットのニュースには北朝鮮が6回目核実験をしたことがトップで出た。ICBM用水爆成功、と載っている。有識者や記者の意見もたくさん載せられていて、経済制裁、北朝鮮・米国・日本が対話をするべきなどとも書かれ、ついには北朝鮮への軍事攻撃(毎日新聞)さえ書いた識者もいた。非常事態なのであるが、わたしは違う意見・対策を考えた。北朝鮮、韓国、日米はいつやられるかと被害妄想になっているのだが、そのことには言及されていない。そこなのである。上記の四カ国が日本も含めて相互不可侵条約を結ぶことを提案すれば引き受けると考える。そして、国連軍を募り、北朝鮮に対して世界が闘うという姿勢を見せれば良いのである。
緊張が収まった状態で北朝鮮の独裁政府の保全を認めてやり、それからは様々な手がある。北朝鮮に開放を促し、国との交流が出来れば、北朝鮮人民は民主主義の快適さを知り、金正恩を追放するか殺すであろう。現段階で北朝鮮との対話を持ち出す者もいるが、北は核保有を認めることが前提だと言い、アメリカは破棄することが前提だと言い、これでは話し合いの場が持てるはずはない。
今の状況は日本が真珠湾攻撃をした前夜に似ている。当時、日本は資源不足の上にアメリカから経済封鎖を受けていた。そんな歴史に学ぶべきである。
山道をほぼ毎日散歩する。往復で一時間半もかかる。いつものコースの中ほどまで来ると、木の根が道に何本も張り、小石が靴の裏に潜り込み、凸凹地面になっていて足を取られる。散歩ではなく、(行)に近い。人一人がやっと通れる道幅であるが、誰とも出会わず、イノシシの子が横断して消えたことがあった。
そこまでの登坂の所で、おしゃべり鳥がしゃべっている。十分も二十分も可愛い声でしゃべり続けている。何をしゃべっているの?と訊いてみたくなるが、言葉を覚え始めた人間の子供のようにしゃべることが楽しくて仕方ないのであろう。山の中で響くとまるで音楽のようだ。わたしも釣られるように、カラオケ教室で習っている演歌を歌う。まったく良い気分である。そこが帰り道になり、脚が楽になり、下から向かい風が吹いてくると、爽やかになり、おしゃべり鳥は違う山中で鳴いているのがわかる。
スナックのママをやっていたある女が私に言った。?あんたは屁理屈屋だから女にもてないのよ。
このブログに書いてるようなことを時々、しゃべるからそのように解釈されるのであろうが、わたしはおしゃべり鳥のようにしゃべり続けるつもりである。
我が家の庭では、8月中旬から栗の木が実を落としている。一番先に、中に実のないものが落ち、自ら間引いている。庭には三本の木があるが、毎日、両手に入らないくらい落ちていく。手慣れたわたしは栗の割れ目を見つけ、そこに火箸を突っ込んでえぐり出す。2,3個とこぼれ落ちてくる。
不思議だな?と思う。イガイガ頭をして人を寄せ付けないようにしていながら、割れ目を見せ、突っ込むと、どこか遠くに運んでよ、と言いたげに身を任せる。まるで人の女みたいではないか?頑張る男、知恵のある男の子供しか産まないと言う考えであろう。山の果実の中でドングリやシイノミなども硬いが、栗ほどの抵抗感の強いものはない。
産直店に出しても売れ行きは良くない。買った人も包丁でまず硬い外皮を剥き、次に内皮まで剥くのは大変である。ところが、そこで頑張って皮を剥き、栗ご飯など作ってみると、何とも言えない味が味わえるのだ。
11月まで落ち続けるであろうが、今日はどれだけ落ちたか?と見てみる楽しみがある。来月には柿の実が熟し、次に銀杏がたくさん落ちて来る。我が家族たちは一年中、子を産み続ける。