ブログ - 20140927のエントリ
心臓のバイパス手術を受けた者は障害者の認定を受けれることを知り、町役場に行って届けてきました。わたしはこれで障害者になるわけです。もとより吃りで声を出すことに困難を生じることがありましたが、なんとか自力で飯をくってきましたので障害者の世界は初体験です。(障害者の会)から声がかかってその仲間にも入りました。うちの家系は障害者の多いほうですが、(レア)を自称するわたしは障害者に対して特別な」視点を持っています。
この前テレビでアメリカには障害者を紹介するプロダクションがあることを知り、おどろきました。映画やテレビ、雑誌の中で障害者の登場が必要な場合、紹介して派遣するわけです。日本でそんな会社は聴いた事がないので、さすがに自由の国だなと感じ入りました。振り返ってみると最近の映画やテレビドラマや写真や見世物小屋に障害者の姿を見かけないことに気づきました。わたしが幼い頃、小倉の街に出かけたりすると傷痍軍人がいました。白い衣服に身を包み、軍帽をかぶり松葉杖をついて街角に立っていました。アコーディオンをひきながら軍歌を歌い、缶詰の空き缶にお金が入るのを待っていました。太平洋戦争で闘った軍人なのでしょうが、アコーディオンから軽く流れるメロディは片腕がない片足がない悲惨さと対照的で聞いてる者の胸を打ちました。その時代の写真集からその写真は消えています。
人権のもとに障害者たちが消されているのです。障害者が登場すべきだし、それが多様性の一つなのです。逆に障害者を登場させない映画や写真は障害のある世界ではないでしょうか?
今でも時々、その通りの街並が心の中に浮かぶことがあります。一戸建て団地の道通りですが閑散としていて、うす曇の秋の頃、少し先に公園の緑の木々の見える普通の景色です。景色というものは不思議なものでそこで人とのかかわりなどがあると映画の一つのシ?ンにみたいになるものですね。
わたしはバイクを停め、車を停めた青年と話していました。彼はそばの家から出てきたばかりで、わたしは受信料の支払いをお願いしていました。力尽きたようなひ弱な顔を運転席から見せて彼はわたしの話しを聞いていました。今月分の1395円を払うように彼に言いましたが、金がないのでこの次にしてくれ、という返事でした。
わたしが一週間後にその家を訪ねると彼の奥さんが払ってくれました。どこか色っぽい女の人で、二歳くらいの幼女がそばに立っていました。わたしは二ヶ月に一度、集金に通い始めました。生活が苦しいことがわかったので、チョコレートをもっていき娘にあげました。奥さんも笑顔を見せ、わたしも通うのが楽しみになりました。
半年後、おかしなものを見ました。25歳くらいの奥さんですが、その首のまわりに赤紫の紐の跡が見えました。尋ねるわけにもいかないので後で考え、ひもで首を巻いたような長い跡で首の後ろにまで伸びていることに気づきました。首を吊った跡としか考えられませんでした。借金があることも聞いていました。
一年後にその一家は引っ越していきましたが、どこに行ったかはわかりませんから、不明処理をしました。その一年後、国道3号線のそばの借家を点検し、受信料の未払いの家を探していました。金貸しの機械が三台並んだ先の家を発見しました。リストに名前がないので未払い者か転入者です。ドアをノックしました。若い女が出てきました。その奥さんでした。お互いに懐かしくなり、笑顔を見せ、受信料の当月分を払ってくれました。
また集金に通い始めました。女の子は四歳くらいになり、わたしをオジチャンと呼び、わたしは子供シールをカバンから出してあげると、喜びました。
二年ほど通うと、その一家はどこかに消えました。奥さんはここは金貸しの機械があるので金に困った人が集まり、環境が良くない、と言っていました。次のようにも言ったのです。この家は不幸ごとがあったのですよ。時々、髪の長い女の人が奥のほうに座っているのが見えるのですよ。娘も言うのです。お母さん、あそこにまた髪の長い女の人が座ってるね、って。わたしはおどろき、娘までが見えるのだから本当に居たのだと考えました。わたしにはそんな能力はまったくありません。テレビの受信機のような能力でしょう。電波は人の目には見えませんが、機械を通すと画像に変わるように。
3年後、バイクで宗像市自由が丘の団地を走ってると、軽トラックに乗った女の人と顔が合いました。奥さんでした。車を停めて話をしました。前の主人は借金を苦にして、車の中で焼身自殺をした。わたしの胸は痛み、痩せてひ弱そうな若者を思い浮かべ悲しくなりました。彼女は別の男性と結婚し、今はこの車で廃品回収の仕事をし、実家で両親と生活をしている、いう話を聞きました。あれから二十年、あの時の娘は成人して結婚したでしょう。今度、奥さんとどこかであったらわたしのあれからの生活も話してあげようと思います。