ブログ - 20140408のエントリ
わたしは毎日、近くの山道を一時間くらい散歩していますが、そこでO君という58歳の男と知り合いました。かれは退職して高齢のお母さんの食事を作ったり買い出しに行ったり、近所の高齢者のお手伝いをしたりしています。日に3,4度も山道を歩き、美しい夕陽に感動して見入ったり、出会うと誰にも挨拶し話しかけもします。自然大好き、という点でわたしと共感して親友になり、わたしはぼ毎日彼の家の前を通りかかって、彼と長話しをしたりし二人で竹の子を掘ったり兄弟みたいなつながりです。
すごく純真なせいでしょう、金比羅山の傍の道路整備事業の工事に対しては怒りをむき出し、作業員や町の建設課の職員を怒鳴りつけたりします。ユンボが地面を叩いたり擦ったりする騒音に耐え切れないと言っていつも耳に栓をしています。私以上に感受性が強いのです。
利便性より不便性を求める、という考えで彼の家はテレビもストーブもなく新聞もとっていません。もちろんPCもないし、ケイタイは持っていますがガラケーで、メールもしません。トイレは汲み取りで彼が汲み取って畑に埋めています。
ネットで知った知識を彼に話しました。千日回峰行や自然破壊の話、若い頃の経験談にすごく興味を示しました。スマホのタブレットを彼に貸してネットやわたしのHPを見せると喜びましたが、わたしにすぐに返し、この世界に自分が入ることはないと言いました。
わたしは不思議に思いました。お金にそれほど不自由してるわけでも操作能力が欠けているわけでもない。図書館で本を借りたり本を買ったりもしているのに、なぜかな?と考えていました。近頃になってわかりました。彼もうまく表現できなかったのですが、わたしは現場活動とネットと両方の方向があるので、わかったのです。ネットの情報は恐いくらい豊富なのですがそれは現場を見ずにして信じ込むという危険性があり、自分の体をとおしての経験ではありません。それは便利な反面盲信してしまう恐れもあります。
O君はそれを感知して、ネットから離れているのです。山道のそばに湿地帯があったらその中に入ってセリを取り、和え物を作ることを考えたり、ワナにかかったイノシシが片足をぶちきって逃げる姿をみたり、木漏れ日の下で心の音楽に酔ったり、そんな自然の世界にすっかり満足しているのです。
わたしはこんな人は必要だと考えます。すべての人間がネットをみてその情報を信じ、満足する世界はある意味で恐い社会です。もし間違った情報、北朝鮮が日本に向けて核ミサイルを発射したなどということが間違って配信されても信じてしまうでしょうし、体制側が全地球人類をマインドコントロールするのも簡単に出来ます。
O君のような人はそんな意味で(希少人)なのです。