ブログ - 201504のエントリ
今、大学の公開講座で基礎物理学を学んでいますが、真理に出会いました。アルキメデスの原理、パスカルの原理、重力の法則などです。それらは高校の物理でも習っていましたが真理であることに気づいたのです。千年も前に考え出されたものがいつの時代にも通用し、どの世界どの民族、自然界においても否定出来ないものは真理なのです。
そのような真理は自然科学の世界には多いのですが、社会科学の世界においてはそこまで敷衍されてはいません。マルクスの「資本論」は真理に近いことを書いていますが現実世界においては適用できませんでした。中国においては共産党が独裁権力を握り、結局は利権を取ったに過ぎず、権力の移動にしか過ぎなかったのです。
力は正義なり、この言葉は真理です。金をばらまけば(利権、生活権、利益など)人は必ず集まってくるし、投票もします。これが政治権力になります。多数は数が多いので強いベクトルを持ち、彼らの考えや意見が正義になります。軍備力が世界一であればアメrカのように世界を支配し、アメリカの言うグローバリニズムが正義になります。日本は軍備を持たないから素晴らしいという人が時々いますが、アメリカがその代行をしているにすぎないのです。魅力、も力なのです。美しい女、美しい心、美術には人が集まります。10年ほど前に東京でダリの回顧展を見に行きましたが、一枚の絵の前に学生たちが一時間近くも立って見入っていたことを思い出します。
格言やことわざの中に真理が存在してることがありますが、それらが数式で現れる日を待ち望んでいます。
このタイトルに関することは以前にも書いていますが、民主主義に奇怪さを覚えてまた書きます。こんどの日曜日に町会議員の選挙があるので候補者達が車で回っています。この町を良くするために頑張ります!と叫んでいますが、議会の傍聴や住民投票運動に関わったわたしは石でも投げつけたい候補議員の声も耳にします。傍聴席から異議を唱えただけで警察を呼んだ議長、費用対効果を考えたら町の運営は出来ませんと言った議員、一言も発言しない女議員、議会で発言する言葉がないので副町長にいつも質問書を書いてもらってる議員、いつも町長にべったり張り付いている議員などろくでもないヤツばかりで腹が立つ。皆さん、わたしの生活のために票をください、息子さんを町職員にしてあげますよ、とでも言ったほうが正直である。かれらは公僕でもなければ多くの人のために奉仕するものでもない。単なる利権屋でありブローカーなどである。・さんは良い人だから票を入れてね!んどと言われて票を入れることも一般的なことである。
投票率が30パーセントであれば70パーセントは反対してるわけだが、それでも政治家になれる。では一人しか投票しなくて、立候補者である本人の名前を書いても当選するというわけだ。
どこが(民)が(主)なのであろうか?当選する者は利権の巧妙なパイプを持っているものであり、それが政権与党である。投票率が下がり、立候補する者が減っているが権力を握った者はそのほうが自分達が当選しやすいので改革する気はまったくない。国会でも町議会でも議案は多数派が作りすべて成立する。これが民主主義と呼ばれ素晴らしいものだと生まれた時から教え込まれていく。なんと奇怪なシステムであろうか?
昨日は福岡教育大学に行き、演劇部の「スイート・ミード・トリッパー」を観た。高校卒業・大学入試・演劇部の活動・恋愛と錯綜する多感な時代を取り上げた舞台だった。演劇を観るのは初めてに等しかったが、現在執筆中の小説へのヒントにも出会え学生達とも親しくなれると考え、竹の子をゆでてる最中であったが中断してでかけた。その大学の公開講座「基礎物理学」にも通っているし、以前の仕事の関係上学生たちの生活のことも知っていた。
すごく面白かった。一般者も交えて60人ほどの観客が入り、満員であった。若者らしくきびきびした演技で繰り広げる世界はエネルギーに満ち、自分の学生時代がよみがえって錯綜し、感激した。あんな時代があったと思うわたしは余命を控え、夢も磨り減った昨今である。わたしのその時代は大学は全学連に占拠され、マイクでがなる声がキャンパスに響き渡り、リンチ殺人が起こり、機動隊の催涙弾が飛び交い、一撃の必殺の空手同好会ではリンチを受け、マージャンに狂い、アルバイトで土方をやり、女を買い、友達の部屋に泊まりこみ、と振り返れば凄まじい青春であった。
教育大は八重桜が満開で春が訪れ、広いキャンパスで学生達が静かに歩いていた。剣道部で気合いが飛び交う場所以外はなんとも静かで逆に物足りなさと不安起こさせた。演劇自体は活発でディテールの会話のやりとりが面白かったが恋愛心理、その複雑さ、意外性、不可解さが足りず、主題のインパクトにやや欠けていた。わたしの現在執筆中の作品あるいは(恋愛とは化学反応である)という意外な考えなど挿入するともっと面白かったのではないかと想像した。
公開講座も二度目を2日前に終えたが面白かった。進学高校での物理学は方程式・練習問題だらけで物理学の本当の面白さは味わえなかったが、福岡教育大学の場合は教員志望者が多いので(教え方を教える)というマニュアルが入っているようで、アルキメデスが浮力を発見した経緯や自動車のブレーキを踏む場合にはパスカルの原理が利用されているなど日常生活に絡んだ講義の仕方をするのですごく面白かった。ただ先生は受け持ち領域しか知らず関心もないせいか、「光と熱によって物質が発生したとネットにのっていましたが、物質の発生にっよって時間と空間が産まれたのですか?」「作用・反作用の法則はわかりましたが滝の水がつぼに落ちる時にも反作用が起きるのですか?」「中世までは物理学と哲学は一つだったのですがどうして分離していったのですか?」などの質問には明確な回答がなかった。やはり専門性の狭い世界に閉ざされていて、専門家が総動員されて出来た原発だって東北大震災のような惨事を起こすことがわかった。今度は大学総長に会って専門性の起こす惨事について話をし、教育改革、資本主義・民主主義(金権主義)について討議をしたい。
わたしの家の隣は田んぼであり、地主がいつも除草剤をまいていた。彼とは幼い時からの顔なじみだということもあって黙認していた。ある時、「うちの家は井戸水を使っているのでそんなものをまいてもらうと困る」と言った。「除草剤は害はありませんし、国の法律でも認可されています」と彼はこたえた。「じゃああんた、除草剤を飲めますか?」「飲めるはず無いじゃないですか!」「草が死ぬということは人間にも害があるということだよ」「大気中に消えるということですよ」「消えるはずは無い。地球は大気圏でフタをされてる状態だから拡散するしかないのだ。理解できなければ裁判に訴えても良いんだぞ!」
この喧嘩の後、彼はまかなくなった。顔を合わせるとソッポを向く。
テレビでもキレイキレイを訴えて除草剤のCMを流している。雑草は酸素をだし、人間や動物の出す炭酸ガスを吸ってくれている。中学校の理科でも習っていながらなぜ彼はそのことが理解できないであろうか?除草剤をまくことは一般的なことにまでなっている。一週間ほど前の毎日新聞には除草剤(ラウンドトップ)に発がん性があるという研究発表をし、メーカー側は反論していた。
文部科学省が進学・受験戦争をあおって肝心な(生きることを育む学問)を学校にさせないからである。(教育)とは生きることを教え育む学問である。教育を国に任せると民主主義(金権主義)と資本主義(大量生産・大量消費)の洗脳しかしない。教育の自由化をすべきである。退職した老人でも中学校に入学して数学や理科など学び、実社会での体験を基にもう一度学問を見直すことが出来る。生徒達に人生を教えることも出来る。相撲が好きな子供、絵を描くことの好きな子供、自然と遊ぶのが好きな子供など、個性を活かす道を作るべきである。部活の範囲内に留まらせず、本格的に進ませるべきである。それには一流大学出ただけで社会を知らない国家公務員に任せてはいけない。教科書も文部科学省検定ではなく自由に作らせるべきである。
会社を辞めて地元住民と触れ合う機会が多くなった。カラオケ教室、障害者の会、パソコン教室、大学の物理学公開講座に通い、次は英会話教室に通うことを考えている。これまでの仕事は肉体労働が多く女の世界に触れることは少なかったが、カラオケ教室、障害者の会に通って女達(七十歳以上)と接触し始めると男の世界との違いがわかってきた。
性的な仕組みの違いから女は絶えず男からのセクハラやレイプを警戒する。それはじゅうぶんに理解できる。性関係の噂にすごく敏感であり、特に年取った女はここでは書けないような露骨な言葉を使う。それは男だって同じだから非難する気はない。男の気を引こうとするのかリップ・サービスのつもりなのかわからないが、誘惑する言葉を使いながら男が接触しようとするとすると手の平を返す。ある種の女にこのタイプがいるがこれは理解できないし、男の世界にはいない。
こんな猫がいる。他の家で飼われている猫に散歩中に出会ったりすることがある。手をのばして撫でてやろうとすると離れていくが、立ち止まってわたしを見ている。わたしが寄って手を伸ばすと離れていくが、また立ち止まったわたしを見ている。ニャーと鳴いて人恋しい顔をしている。手を伸ばして触ると逃げるか、噛み付いてくる。
人間の女にこのタイプがいる。カラオケ・スナックで顔見知りの女が出来た。わたしのそばに寄ってきて、今度いっしょにお酒を飲みたいわね、と言った。わたしの家が広いといって場所を教えると車でそばまで来て探したが、ブロック塀が高すぎて家が見えなかった、とケイタイに電話してjきた。どこかでいっしょに酒を飲もうとメールをすると、嬉しい!と返信してきた。どこで何時ごろ会おうか?と訊くと、仕事のシフトの関係で時間をとるのがむずかしい、と返信してきた。何時ごろに時間がとれるか?訊ねると、わからない、と返信するのでどんなシフトのシステムか訊ねると、いつまでも返信をしない。どうしたのか?と訊くと、無理です、またスナックに行きます、と応えてきた。返信までの時間が十分もあったので誰かに相談していたのかもしれないが、わたしは腹を立て、接触を絶った。
会社の上司とドライブをして、車の中で体を触られたりキスをされたりしたので裁判に訴えた。加害者は学校の校長だったが解雇された。そんな記事はマスコミによく出るがわたしに言わせれば上記の猫と同じである。こう書くとセクハラだと言う女もいるであろうがわたしは言いたい。客観的にみれば自分が誘惑しておいて接近してくれば問題視することに気づかないのか?と思う。昔、(誘惑されて捨てられて)という外国映画があったが男にとっては受難であるし、裁判官はなぜそれを指摘しないのであろうか?男女関係とは、体を触って良い?キスをして良い?とわざわざ了解を取り付けて進めなければならないことののか?一対一でドライブに行ったこと自体がすでにそれらの行為を覚悟してると判断されても仕方がないのではないか?
カラオケ教室でわたしは会長に押されて仕方なく了解した。その日は公民館への書類提出のため印鑑が必要であった。事前に女の会長はケイタイにそのことを連絡すれば良いものを電話しにくいと言って、わたしをカラオケ教室に紹介した女(70歳)に頼んだが彼女はわたしとの男女関係を噂される(そんな関係はないし彼女にそんな魅力もなかった)と考えてわたしに連絡しなかった。そんなことを知らないわたしはカラオケ教室に顔を出し、印鑑が必要なことを告げられ、家に取りに帰った。
気が利きすぎて間が抜けてる、とはあんたのことだな!
とその女を叱ったが反省の色はなく、それに似たようなことが二度も続いたので脱会することにした。
この町は閉鎖的な町だとわかっているが、これでも男女共同参画社会を目指そう!と訴えている。
今月の地方選挙において、無投票で議員の出る地域が多い。政治家になろうとする者がいないし、政治家に魅力を感じないからである。年収一千万ちかい報酬を得れる仕事はめったにないし、公約を達成しなかったからといって責任を追及されることもなく金を稼ぐには良い仕事だと考えていたがそうではないということだ。
政治家になったとして、本人のやりたい活動が出来るであろうか?
出来ないのである。当選するために投資した金の回収を考えなければならないし、議員の資格を維持して収入の確保をするためには多くの国民が望む政策を絶えず考えなくてはいけない。党派に属していれば党の政策に異論を唱えたり自分の政治信条を出すことは出来ない。政敵もいるし本人の考えに反対する者もいる。
同時に自分の政治思想を実現しようとして政治家を目指す者がいるのであろうか?ほとんどいないのである。まわりから勧められた、生活のために収入が必要だ、世襲だから仕方ないなど本来の政治家とはかけ離れた状況になっている。強い政治思想を持ち、命をかけてでも国を守り、世界・人類の平和を望む者が政治家になるべきである。そんな人が当選するシステムにしなければならないのだが、現実は多数の票を取らなければ当選出来ない。投票率が50%を切り、過半数からの支持がなくても当選するのが民主主義であり、利権のない少数派が当選することはありえない。
民主主義制度の矛盾が露出してきている。
顔見知りの町会議員が県会議員になることになった。立候補したこと自体に驚きの声が上げる町民が多かった。町議会で駅南口開発をするかしないのかの住民投票、その住民投票をするかしないのか議論の時であった。彼は開発反対のチラシを見ながら次のようにしゃべった。開発反対の団体は任意団体なのかどうか?金比羅山の杉の木の樹齢が数百年とかいてあるが数十年の間違いではないか?
住民投票をすべきかどうかの議論の時に的外れとも言える発言しかしなかったし、立候補した時には笑顔で頭を下げた者が日頃会った時には知らぬ顔であった。彼が無投票で県会議員に当選することになっている。団体役員を自称しながら働いておらず、父親が町会議員だった、妻子を養わなければならない彼にとって年収一千万円もとれる仕事につけたことは狙い通りであり、無上の喜びであろう。
政治業界の部品としては非常に役立つ男である。
今、目覚め時だが、さきほど布団の中で見た楽しい夢を思い出す。電車の座席に座っていた。窓外の景色がパノラマになって流れ、桜の木が赤、桃色の濃淡をまじえて花咲かせ、小川が流れ、田野の草原が広がっていた。その景色が次から次へと流れ、いつまでもつづくのであった。場面は急に変わり、わたしは都会に住み、その広い部屋で(本当の)妻と住んでいた。なごやかな生活であった。友人がたくさん訪れる日であった。いや、友人宅だったのか(今は昔)になってしまった。床に親友の短い頭髪が一面に落ち、フケも混じっていた。まず、床をきれいにしようということになってホウキで掃き始めた。親友も仲間もいっしょになって頭髪を集めていった。
昨日は竹の子堀に出かけ、現場で皮を剥いたが大きなバックに溢れるほどの量になった。8キログラムほどである。山の斜面で体を支え、小指の大きさほどの芽を見つけ、トウグワで掘っていく。竹の硬い根が這っていて竹の子を守っている。トウグワで切り、汗まみれになって掘り下げていく。心臓は大丈夫か?と心配になることがある。俺もしぶといな、まだ生きている、と思う。
腰を降ろして皮を剥く。竹の子は二十枚ちかい重ね着をしていて、節が成長した時の節になるわけだが、段差があるので、芽の柔らかい部分は最終的に二十枚近い重ね着という構造になっている。下の部分は土に守られるが芽の部分は寒さに会いイノシシに狙われまわりに敵が多い。芽の部分は赤ん坊のように大事にしているのだ。
竹はすっかり嫌われ者になってしまった。役立たずというだけではなく森林を侵食して破壊する敵とまで言われ、切り倒される運命である。利用価値がないと資本主義が判断してるわけだが、酸素を出し、土砂崩れを防いでいるという大事なことを(人間中心主義)のこの世は忘れている。
(今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ)で始まる竹取物語を思い出した。金色の竹を見つけ、かぐや姫が現われるわけだが、わたしの前に現われてくれるだろうか?と夢心地になる時がある。今は昔のことになってしまった、という意味だが日本の古典文学にその書き出しは多い。わたしが(今)と書いた時、(今)はすでになく過去のことになっている。時間の観念を考え出したのは人間が文字を持ち始め、竹取物語の書き出しにあるように、文字にしただけでそれがすでに過去になってることを発見したからにちがいない。動植物には時間の観念がなく、必要がない。経験からDNAを変化させているが、野生動物はその日暮らしだから過去や未来を考える必要がないのだ。イノシシは人間の数万倍の嗅覚を持っているのでわたしが竹の子を見つける前に見つけ、牙で掘り出して食べている。その残りをわたしは掘っているわけだ。まだ地面の下で芽を出しかけている竹の子はたくさんあるがわたしには見つける方法がない。イノシシであれば匂いで見つけるであろう。未来にジャンプすることが出来ということだ。
人間の意識はハードディスクである。どこに針を落とすかによって過去にも未来にも自在に跳ぶ事が出来る。野生時代に持っていたその能力は知性と引き換えによって失ってしまった。未来の記憶、過去の計画、などという常識外れの世界が実はあるのではないか?夢の中では過去も未来も現実もなく自在に飛んでいる。日常生活は現代文明の体制に洗脳されているが夢の世界ではそれから解放されている。夢の持つリアリティは恐いくらいである。鮮明にして現実以上の実感がある。視覚を通さずにダイレクトに脳で見るからである。
夢のつづきがあるのなら連れて逃げると言った人、で始まる吉幾三さんの(あんた川)の曲が口をついて出てくる。