ブログ - 20131026のエントリ
そんな言葉を口にした親友がいた。
考え方の違いから彼とは離別したが、わたしは時々思い出してはその言葉を吟味してみる。なるほどとうなずいてはその内容が深まっていき、自己体験も含めて合点がいく。彼はわたしと歳が近いが独り者であり、彼がいうには三人もの女と同棲したが子供が出来ず結婚にはいたらなかったという。
何人かの女に訊いたことがある。オナニーをする時に男との性行為を想像するか?と。想像するという女もいたし、まったくしないという者もいたが、物理的な摩擦で昇天するというのは板を擦って火を起こすような味気ないものだと思う。想像の世界は無限に広がり、それは創造力に直結し、人間だけが持つ特権だと思う。動物を見下げるわけではないが動物にはないし、かれらが想像世界になんかふけっていたらたちまち敵に食い殺されてしまうだろう。
現実界は生生しい臨場感、リアリティがあるが、余分なものやじゃまものがあり、集中力が失われやすい。想像の世界は純粋に引き絞られ、針の先のような集中力を生むことができ、目や耳といったツールを通さないからダイレクトに脳の中で展開させることが出来る。セックスは闇の中ですることが多いがそれは敵の目に触れさせない意図と意識を集中させるという意図がある。
オナニーをする時、男であれば自分の中に潜む女を呼び出す。自分が興奮するように女に下着を脱がせ、太腿をはみ出させる。想像の世界であるから演技は無限にある。まぶたの裏で展開する世界はまるで観客席から見てる舞台のようにスポットライトに照らされ、まぶしいばかりである。女を演じる女形は本物の女以上に色っぽく、男を誘惑する。男の中に住む女ほど魅惑的なものはない。
言語で表現する世界が精神世界とすれば数式で表現する世界は物質世界である。どちらも記号にしかすぎないが、そこではプラスー(男)、マイナスー(女)がすさまじい火花を散らしながらエネルギーを放出し運動をしているのである。
男でも女でも同性愛にはまると抜けられない、というがそれは同性だからどうすれば快感を与えあるいは得るかをじゅうぶん知っているからであり、それはオナニーと同じである。オナニーもどんな行為で自分が興奮するかを知ってて行うから現実の女以上に感じるのである。自分を相手にセックスをしているのである。
その親友は次の言葉もよく口にだした。?自作自演の人生さ、笑って死んでやろう。
(自作自演)とオナニーという言葉がすごく共振することに今は気づくのである。