ブログ - 20120915のエントリ
(ハーバード白熱教室講義録プラス東大特別授業)の本を今、読んでいる。(第一回殺人に正義はあるか)を読み終えましたが、期待外れであった。なぜこの本に人気があるのか不思議でした。なぜなら(人間中心主義)と(キリスト教の信念)を持つ限り、現代社会の問題は理論的にも解決できないし、論議の最終的な結論はイエスを信じ、人権民主主義を広めなさいというプロパガンダが見えているのです。
もとより人間の意志には宇宙の意志が(小宇宙・大宇宙)として入り込んでいるのだから、殺人を人間の意志のレベルで議論しても不確かな解答しか出ない。魔がさした、魔の瞬間などと自分を失う時が人生において何度か訪れ、とんでもないことをしたりしそうになったりする。それは自分の自頼心が弱まっているときであり、何者かの意志が入り込んでいる。殺人にたとえるなら、(人を殺せ)という意志かもしれない。この前テレビでこんな番組を見ました。牧場に観光客が訪れ、牛を見たり、菜園をみたりして楽しんでいました。飼い主や客はのんびりした表情の牛の顔を撫で、笑いかけていました。で、そのあとに菜園で取れた野菜を食べ、ビールを飲み、牛の肉を食べているのです。
この光景に驚き、矛盾を感じ取らないのは、牛は人間とちがって食べられるものという人間中心主義が無意識にまで入り込んでいるのです。牛の立場から言えば、顔を撫でて自分達を平気で食べる、なんてどんな心理なのか?と驚くでしょうが人間は一つの考えに洗脳されるとこうなるのです。戦争時において敵を殺すことが賞賛されることに似ています。
殺人は正義でもなければ悪でもない、そんな次元のことではないということでしょう。
サンデル先生がベンサムの(最大多数の最大幸福)の言葉を持ち出すがそれもおかしい。敗者がいるから勝者が存在するのであって、敗者の数だけ勝者がいるとも言える。実体と陰みたいなものである。
それがわからずして幸福ばかりを追求した結果が東北大震災であったのだ。
イスラム教のムハンマドを侮辱する映画をつくったということでキリスト教徒が何人も殺されている。どちらの宗教も一神教だからその宗教を信じない者はサタンなのである。宗教組織が大きいからオカルト宗教とは呼ばれないが本質的にはオカルトなのである。この教義に取り込まれた者の本を読んだところでこんなものかと思い知った次第です。
私にとって19歳の年は最悪の人生であり、最大の危機であった。大学受験で第二志望の大学にまで落ち、自律神経失調症に陥って一日中頭が重く、ひどい便秘症にかかった。対人恐怖症になりおまけに幼い頃からの吃音もなおらなかった。断食道場に住み込んで一週間の断食をしたが、食欲に負けてしまった。こんな自分は社会に出れない、生きていけないと考えた。父は家庭を放置して子供達にかかわらず、母は息子達に過大な立身出世を望んでいた。また人にも言えない出来事もあった。
私は東京の吃音学院にいってドモリを治すと言って、母から金をもらった。箱根の山に行った。高校の修学旅行でいったのだが、その時だけが一番楽しく学業を忘れることが出来、初恋の同級生を遠くから眺めていた。2年後のその時は、楽しい思い出を追うようにバスを乗り継いだり、歩いたりして散策した。無人の別荘にかってに入り込んで寝たりした。
ある日、公衆トイレの大便室に入り、準備していたロープを鴨居にかけた。ウイスキーを飲み、薬局で買った睡眠薬を2錠飲み、首をロープの輪の中に入れた。しばらくすると眠気がきて、力が失われてロープが首をしめて楽に死ねるはずであった。ところがいつまでたっても眠気はこなかった。
おかしい、と考えたがシラフで首をつる勇気はなかった。そこで思いついた、(ここで無理に死ななくても病気で死ぬか交通事故で死ぬか寿命がきて死ぬわけではないか、そうなるまで(死なないから生きている状態)でもいいではないか?
それから現在65歳まで生きてきた。仕事で汗を流し、美味しいものを食べ、酒を飲み、バクチをし、女を抱いた。家庭をもうけた。立身出世は出来なかったが、人生の楽しみはほぼ味わった。
これで良かった。