ブログ - 201208のエントリ
若い頃はオリンピックが面白く、競技や順位に興奮したものだが、年々興味がうすれ、今年は腹が立ってしまった。テレビはどの局も一日中、オリンピックを流し、新聞も競技を写真入りで紙面を埋めた。マスコミ関係者はこれでじゅうぶんな夏休みを取れただろうが、わたしのような視聴者、購読者にとっては良い迷惑であり、オリンピックよりも大事な報道があるはずなのにと考えた。
スポーツに興味がないというのではない。スポーツは格闘技がルール化されたものであり、サッカーやボクシングなどは好きだが、何秒を競う短距離競走やマラソン、水泳などは興味がない。0・1秒の時間が縮まったくらいでなんの意味があるというのだろう。
学校や会社で毎日競争をさせられ、余暇にまで競争の番組を見て面白がるなんて、毒を食らわば皿までもというべきであろうか?
自然界、特に動物の世界は敏捷さが生存に直結してるわけだが、ノロさで生存権を獲得してる動物もいて、人間界より多様性がある。たとえばナマケモノ(こんな名前をつけること自体がかれらにとって失礼と思うが)は出来るだけ動かずあるいは動いても非常にノロく、植物と見間違えられることによって敵から身をまもっている。
人間社会は多様性からどんどん遠ざかり、一極集中になり、ますます生きにくくなっている。100メートルをもっとも遅いスピードで走る、いや動くことを競技させるなんて、そんな発想は生まれないのだろうか?なにも生産せず余剰物を食って生きる人々がいたが、今や衣食住を与えられ、軽い労働をさせられて生きるようになった。すべてがこの社会体制の中に組み込まれたのである。
たまにはナマケモノのように生きてみたいと思っていたが、入院生活を2ヶ月ちかくも送ってみると、(何もできない、何もしない)毎日がどんなに辛いものであるか身にしみてわかった。
人間の体は動くように作られているから、自分にあった労働をして毎日を送るのがベターだと悟りました。
わたしは1970年代、1980年代を東京で学生生活を送った。まさに政治の季節であった。学生運動が盛んで、キャンパスは新左翼に占拠され、機動隊が入り、催涙弾が投げられることなど日常茶飯事であった。新宿の街にはフォークソンが流れ、長髪や髭を伸ばした若者達がたむろししてにぎやかであった。右翼の活動も盛んで、赤尾敏さんなんか老齢にもかかわらず毎日のように街頭で演説をし、政府の批判など耳をかたむけるようなことを喋っていた。
今、日本は領土問題や政権など国自体が大きく揺れようとしているのに右翼、左翼は消えてしまったわけではないだろうが、姿をみせない。一般大衆も領土問題で中国や韓国みたいにデモを起こしたりはしない。政治や外交などはお上にまかせ、関わろうとしないのだろうか?
職場の会議においても日本人は自分の意見を言わない。管理職の言うとおりにしか動かず、言われたとおりの仕事を一生懸命する。それが自分の利益になると考えている。仕事上において本当のこと大事なことを話す社員がいたら、煙たげな視線を向ける。陰では会社の批判、政治の批判をし、組織が失策をすれば後になって責任追及をする。
水俣病、福島大震災、イジメによる自殺など恐ろしい事件は関わった者達がもっと早く声を大にしていれば防げたかもしれないが、見て見ぬふりをすり者が多くて起こった(人災)である。
右翼とか左翼とか関係なく自分の意見をきちんという人が増えて欲しいと思う。
尖閣列島に中国、日本の民間人が上陸し、領土のことで牽制しあっている。竹島には韓国の大統領が上陸し、従軍慰安婦問題をとりあげて天皇に謝罪をするように発言している。北方四島はソ連が開発をはじめ、返そうとはしない。政府の対応は穏健というのか冷静というのか優柔不断というのか、はっきりしてるようで方向性がみえない。マスコミは現状を報道するだけで政府と似たような姿勢である。
どうにもやりきれず、不安をおぼえる。方向性が見えないというのはそれぞれの国民の不満がこうじた場合いつか来た道にもどるのではないかという不安になるのである。それぞれの政府は政権を維持するために国民の顔色をたえずうかがい、国民が満足するようにしか動けない。これが民主主義である。ということは、(戦争)という事態はいつ起こっても不思議ではなく、いつでも起こりえるのである。
政府とマスコミはそれらの島の歴史的な動き、両国政府との関わり合いをなぜきちんと日本の国民、相手国の国民もふくめて説明しないのであろうか。公共放送をうたうNHKなどはまっさきに報道すべきであるが、従軍慰安婦の番組で問題をおこしたせいで触れることを怖がっている。
世界の国の領土は戦いで奪い取ったものである。自分もふくめて皆そんなことはわすれたような顔をしているが。国境はどんな基準で判断するのか国連で決定すべきではないか。むずかしいことだろうがそれくらいのことをしないと領土問題に起因する戦争はいつまでもつづくのである。
日本政府が毅然とした態度をとり、タイマン(前回のブログで書いている)を張るくらいのことをすれば日本の国民も変わっていくはずであるし、そろそろ(自国はどうやって守るのか)がはっきりさせられてくる
時期になったようだ。衆議院が解散し、次の政権からおおきく変わっていくであろう。
私たち国民も生活のことを考えなくてはいけないが、(自国はどうやって守るのか)をはっきりさせなければいけない。
7月23日に心臓の手術を12時間かけておこない、成功した。3人の医師でバイパスを1本通し、心臓に出来ていたコブをなおし、動きのおかしかった弁を機械弁にとりかえた。
全身麻酔がかかっていたため、手術の記憶はまったくなかった。
4日間、集中治療室にいれられ、つぎに観察室という手術後の患者のはいる3人部屋に入れられた。その頃から、精神の錯乱が起こりはじめた。自分が病院を5つも6つも変わったとか、路上で倒れて病院に運ばれたとか、事実でないことをさも事実であったように信じ込んでいた。看護婦にそのことを話すとそんなことはなかった、といい、わたしは自分が手術前に忠告されたせん妄状態におちいっていることをしった。事実かせん妄か区別のできないその他の事例を持ち出して彼女らに問い、90パーセントは区別ができるようになった。
ところがもう一つ、おかしな行動がわたしにではじめた。病院からの脱出行動である。ケイタイも財布も取り上げられた状態なのにベットの柵をはずし、まだ歩ける状態でもないのに部屋から抜け出し、エレベーターにむかい、外に出ようとしたのだ。看護婦たちはそれに気づき、監視体制にはいった。わたしは脱出をあきらめなかった。ともかく、家に帰りたいいっしんであった。6度目くらいで成功した。点滴スタンドを右手に握って体をささえ、浴衣姿、固定バンドを胸にしめていた。エレベーターにのって1階までおり、玄関を出た。バス乗り場とタクシー乗り場があり、タクシーにのろうと考えていた。ケイタイも財布も持っていない、入院費も払わず、退院手続きもしてないことは意識の中になかった。
16時頃であった。まだ暑いので涼しくなるまで待とうと考えてそばのベンチに腰をおろしていた。すると見慣れた顔の看護婦が現れ、あと三人の看護婦と医師が現れ、「あなたはまだ治療中です。ベットに帰ってください」といった。「もう手術も終わったじゃないですか。どこに行こうとぼくの自由じゃないですか!」わたしは本気で反論した。「これからが治療なんですよ。手術のあとも治っていないし、薬の調合だとかいろんなことがたくさん残ってるんですよ」医者はいい、説得してわたしをベットにかえした。
それからは医者のいうことをきいて治療にはげみ、8月11日に退院した。今でもあの時発見され、ベットにもどされて良かったと思う。医者のいうことが正論でわたしは自己都合で動いたのであった。世の中の事件はこのようにして起こることがわかった。正論ばかりを振り回していたわたしにとってショックであった。考え方を大きく変えねばいけないと考えた。