ブログ - 201204のエントリ

両性具有と人間存在

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日記
執筆 : 
nakamura 2012-4-7 23:21

両性具有者とは男性器と女性器の両方を持っている人のことでですが、発達の度合いの差はあるが誰もが両方を持っているのです。クリトリスはペニスの退化したものであり、睾丸は卵巣がむき出しになったものです。女性ホルモンと男性ホルモンにおいてはその量のちがいが男と女をつくっているにすぎない。人間は本質的には両性具有者なのですが、近代の精神は白と黒をはっきりさせなければならないシステムになっている。だから、逆に混乱を起こしてしまう。性同一障害(これはおかしな言葉だと思う。男か女かはっきりしないのは障害者なのだろうか?)という表現にみられるように心は女であるのに性器は男、心は男であるのに性器は女、というややこしい状況になってしまう。もともと両者は混在しているものだと捕らえたほうがわかりやすい。社会の秩序を構成するためにははっきりした区別が必要なのであろう。

寒さと暑さでとらえてみると、寒さの記憶があるから暑さを感じ、暑さの記憶があるから寒さを感じるのです。両者は重なり合っているだけであり、実は裏腹なのである。この世の存在はすべて対立物と重なりあっている。男と女もそうであり、金持ちと貧乏、健康と病気、勝者と敗者など数え上げればきりがない。そんな考えから人生や社会を眺めるといかに私達が(どちらかでならないという)偏向した考えを植え付けられてきたかがよくわかる。

自分もふくめ思想の原点に戻らなければ錯乱させられるばかりである。

心の温度計

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日記
執筆 : 
nakamura 2012-4-7 22:10

心に温度計があるとするなら、私のそれは外気にひとしく20度くらいです。春が訪れ、あの冬の寒さが嘘のように感じられます。あの寒さの裏には暖かさが芽をだそうと待っていたのです。両者は重なりあっていただけなのに私達は気づかなかったのです。今のこの暖かさの裏には寒さが潜み、その記憶が暖かさを感じとっているのです。

今日は仕事を午後三時くらいできりあげ、畑の草むしりをしました。タマネギの畑には雑草が密集し、むしりとるのがかなり面倒でしたが、あとは散髪を終えた頭のようにすっきりなりました。何日か前に植えたナス、トマト、キュウリ、キャベツに水をやりました。

地球が太陽の周りをまわり、春夏秋冬が訪れ、めぐっていく。自転するために昼夜が訪れ、そしてめぐっていく。寒暖や涼しさ、暑さを感じ、心の動きとリンクすることはわかるがなぜ人間は気温のちがいを感じとるのだろうか?生物学で学んだように変温動物であるからだとおもいつくが、それにしては人間、そして自分の存在に不思議さを感じとります。

幸福度の方程式

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日記
執筆 : 
nakamura 2012-4-5 23:39

今になって色んなことがわかってきました。結局どんな人間であろうとどんな生き方であろうと、その幸福度の方程式は0であるということです。(空腹は最大の味覚をつくる)というタイトルで前回ブログを書きましたが、逆に(満腹は最低の味覚をつくる)ということなのです。飢えに苦しんだ量だけ美味しくなるわけですよ。寒さに凍えた量だけ暖かさの快感を得ることができるということです。いつも満ち足りた人生をおくっている者は本当の美味しさや快感、幸福度は味あえないということです。

それは座標軸で観れば反転対称形になっている。どんな人生であろうとどんな人間であろうと苦痛、快感変転し、マイナス、プラスの数値を加算していくとけっきょくは0になるということです。高校時代にもこんな考え方をしたことを思い出しました。

そこに平等性があり、神が色んな人間をつくり、人生を生きさせている宇宙の意志(神の摂理)が感じられます。

巨視的な視点は神の視点である

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-4-5 23:17

64年間生きてきて、自分の人生、社会の動き、政治の動き、はては国際情勢を観るとイタチゴッコ、モグラタタキにしかすぎない。いつまでも目先の利益に振り回され、揺れ動き、同じことの繰り返しである。帰納法と演繹法という表現があるが、巨視的な視点をもって演繹法で政策をおこすべきだと思う。

神の視点とは宇宙の意識、その視点である。宇宙の誕生、推移、変転、死から次に地球の誕生、推移、変転、死、それが国家、個人のそれらと重なり合っている。

いつまでも生きつづけ生き延びようと考えているのが間違っているのだろうか?人類は破滅すべきののであろうか?

現代文明によってこの地球、自然が破壊されるのは防げないのだろうか?寒い時にはそばにあるストーブに手を伸ばし、腹が減ったらそばにある美味しいものに手を伸ばす、そんな本来的な欲求にまかせて生きることがまちがっているのだろうか?いや、そうではなく、文明の利便性に寄りかかりすぎ当たり前だと感じてることが間違っているのだ。

人類が少しでも繁栄を先延ばしにしたいのであれば世界人口と食物エネルギー、資源エネルギーのバランス、自然の破壊状態などという大きな視点から政策や法律を決めるべきではないか?目先の経済の繁栄に振り回されてはならないし、票になることばかりかんがえてはならない。国や政治家は神の視点に近づかねばならないと思う。

これは誰の言葉だと思いますか?

徳川家康の言葉なのですが、今日ふと思いつきました。会社に行って、管理職たちが(23年度の目標を達成した!今日から24年度の仕事をしよう!)と皆が同じことを演壇に立って言うのです。誰ひとり、違うことは言いませんません。そこで私にこのタイトルの言葉が思い浮かんだというわけです。

家康がすごく苦労して天下をとったことがこの言葉からわかります。この言葉を真に受け止めていれば日本が太平洋戦争で真珠湾攻撃をするなんて無謀なことはしなかったでしょう。蒙古襲来、日清戦争、日露戦争と外国と戦って勝ち続けた先に落とし穴が待っていたのでした。人生においても仕事においても調子に乗っている時にとんでもないことが起こりやすいものです。

アメリカ映画を観ていると、(バッド・ルーザー)という言葉が時々出てきます。(どうしようもない負け犬)という意味ですが、反対に(グッド・ルーザー)という言葉を考えました。家康の言葉はそれをさしているのです。(負けることを知った者は勝ったもの以上に人間や社会を知ることが出来る)と思います。

私は自分の希望がほとんど叶わなかった負け犬ですが、勝った者以上に人間と社会について思い知らされました。その意味で(グッド・ルーザー)だと自信をもって言えます。

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