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金は持っているほうが、良い、といえるが、そうでもない。かつて自分が受信料の取り立て業務をやっていた頃、月に百万円の給料を二年間ほどとったことがある。新車を現金で買い、女を買い、酒を飲み、マージャンをして遊んだ。千円の金を使うことくらいで考えたりしなかった。そして、株でももうけていた。金額は単なる数字にしか見えなかった。その結末が今の生活困窮である。それに、あと何年間で体が動かなくなるに違いない。そうなると生活保護をもらうことになるだろう。死んだ叔父は、おれの家系に泥を塗った、とあの世で言うであろう。でも、金がないということは必然的に世の中や他人を見る目、その基準が低くなり、気持が自由になれるのである。自分の欲望も行動力消え、今日、生きていることだけに感謝の気持ちが湧いてくるし、体の悪い者や生活困窮者を見る時に、同情と愛がわいてくる。受信料の取り立て業務をやっていたころは、集金に行って、2790円が払えない、と言われれば、こんな金も払えないのか?とおもったりしたが、今はその相手の気持ちがしみじみわかる。
この前のニュースで、金がなくて140円の食パンを万引きし、つかまって、30万円の罰金をうけた老人のことがのっていた。あの頃、仕事が忙しくて食事をする時間がなくて、空腹に耐えられないときがあった。目の前に食べ物があれば、盗んででもたべたであろう。もし自分が万引きして捕まったとすればば自分を嘆きながらも自分の行為を振り返り、行為に至った道筋を振り返り、生物とは結局はこんなものだと考え、トラやライオンが獲物を毎日追いかけ回して生きていることに考えを向けるであろう。そして、フランスの作家、ジャン・ジュネの(泥棒日記)を思い出し、最初の書き出しの文章を吟味するであろう。また、自分の万引きの体験を作品にしてみたい、と考えるに違いない。自分の体験すらイや自分自身さえ、材料にしか過ぎないのである。
67歳になって貧乏暮らしになり、若い頃の浪費を悔やむことがあるが、逆にある意味での悟りみたいな境地にもなっている。両親は亡くなり、叔父、叔母たちもほとんど亡くなり、淋しい気持ちはあるが、期待されないことといらぬおせっかいが消え、ほっとしている部分もある。そして、週に二日も働けばあとは自由である、なんて若い頃には想像もできない恩恵である。二十年前、NHKの集金業務をしていた頃、母の弟は、うちの家系から集金人が出た、とたえず嫌味を言っていた。彼は県庁の商工課の課長補佐をしていたが、その仕事がよほど高級だと言いたかったのだろうが、自分の目から見れば、単なる・・泥棒にしか過ぎなかったのである。
ふり返れば自分もふくめほとんどの人は周りの目を気にして、生きているの。自分の生き方が世間にそっているかどうか?たえず点検し、男も女も半ば怯えながら生きている。ちょとした劣等感や優越感にふりまわされ、生まれた時から死ぬまで世間の価値観の奴隷にしか過ぎない。
ドモリで頭が悪い、臆病だが怒りっぽい、スケベな顔して女を探す、そんな自分など世間の価値観から見れば底辺の男にしか過ぎなかった。だが、悪い頭を振り回し、本を読み、いろんな宗教で学びながら、自分の価値観が出来上がっていった。神に対する考え方などしゃべるとあなたは一方的に考えていると無視される場合が多い。
だが、自分では満足しているし、日々、人に会ったりニュースをみたりすると、自分の考えと照らし合わせて、やはり自分が間違っていなかった。世間のほうがおかしかったのだ、の判断することがある。
精神的な病人が増えているという報道があるがもっともだと思う。セクハラ、パワハラ、だとか重箱の隅をつつくような世間、それをいちいち取り上げるメディアの中にいれば精神的な病人は増える一方である。
紆余曲折しながらでも間違っていても自分の価値観を作り上げれば、ある程度の達観はできる。今日の朝も目覚める時に胃炎が起こっていた。起き上がる気はならなかったが、昨日とった栗とニラを袋につめ、スーパーの産直コーナーにバイクで運んでいくと、早朝の道路は空いていて走るのが楽しくなった。ウツの時は体を動かすのが一番良いのである。
心の病は人間関係がほとんど原因していて、自分の価値観で対抗すれば勝てることが多い。憎たらしい奴がいればこんな人間も多様性の中で生きているんだ!と考えてみよう。
昼間は暑くて扇風機をかけていたが、昨夜は寒く、目が覚めて、毛布と掛布団をかけて寝た。考えていたとおり、季節は変わり、また冬が来て、寒い!というのである。こんなことを、同じことを繰り返しながら自分はあの世にいこうとしていることに虚しさをおぼえる。が、これが人の生き方であることであり、季節が巡ることで自然が生きている、そして自分も生きていることに感謝すべきであろう。
この時期になると、決まって、草むらで鳴いていたコオロギは床の下にもぐって鳴きはじめるのである。しかも一匹が、陽が暮れると、泣きはじめる。オスであろう、種付けの時期を失ってしまい、それでもメスを呼びつづけ、亡骸になるまで鳴くのである。
まるで自分みたいである。いやそっくりかもしれない。
今日の日曜日はいつもの日曜礼拝の日であるが、昼からアルバイトがあることもあって、あまり行きたくない気がしている。二つのキリスト教会に通っていて、ひじょうに勉強になっているが、もの足りなさをおぼえるようになったのである。それはトップ・ダウンで神や聖書の言葉を教えるばかりで、今の話についてどう思いますか?などは問いかけず、信者の側に立っていないからである。信者たちがどのようにして神を信じ、祈っているのかもわからない。どんな悩みに立ち向かっているのかもわからない。自分がどのようにして向き合うべきか?の参考も見いだせない。それらは牧師に聴けば教えてくれるが、問題提起をして議論をさせることで活発化させたほうがいいのではないか?
数日前のヤフーのニュースで、養老孟子さんが、日本人の場では悩みをうちあけたり本音を出したりすることが少ないし、少なくなったと話していたがその通りだと思う。そうかと思うとマスコミに感化されてセクハラ、パワハラ、などにはすごく敏感なのである。それで世論が出来上がってしまう。
ともかく時代の考え方が一本化されず、世界の出来事に振り回されており、なにを信じれば良いのか?わからなくなっている。歳の若い人たちは精神が錯乱してしまうのではないか?
自然に立ち返り、床下のコオロギみたいに深く瞑想すべきではないか。
我が家には四本のクリの木があり、先月から実を落とし始めた。昨年はおよそ千個の実が落ちて、生活費を稼がせてくれたので今年はすくないはずだと思っていたが同じくらいの量が収穫できそうである。宗像の産直店に、1パック・8個いり・150円で出したが2パックしか売れなかった。そこは売れない店だと知っていたので遠賀の人気スーパーに出した。昨日は二十パックのうち16が売れ、180円で出したのであった。これからはその店に三日に一度は持って行こうと考えた。
国民年金での生活なので栗や竹の子、梅、ビワ、柿、はっさく、レモン、スイカなどの売れ行きは生活に直接ひびいてくる。二十年前に亡くなった母がこの家を建てた時にあらゆる果実や花を植えてくれた。それが実になり花になり、わたしの貧乏生活を支えてくれている。まるで母が乳を垂らしてこの老男にのませてくれているようなものである。敷地は700坪もあるので草刈りが大変であるが、その労働のおかげで健康を保っている。
朝と夕、日に二度、栗拾いをする。一度につき三十分はかかり、ヒバシを手に持って、落ちた栗の実をこじあけて取り出す。時々、腰が痛くなり腰に手を当てて、叩いていると栗の実が勢いよく落ちて、頭を叩く。母が気合を入れてくれたように思う時もある。母は暴力をふるったことなどなかったが、教育ママ、モンスターであった。
溜池が五か所もあるので蚊が体に数十匹も襲い、手で振り払いながらバケツの中に栗の実を貯めていく。水につけて虫食いを外し、洗って干す。日に当てて乾かし、二日後の朝、バイクでスーパーに持って行く。値札を貼りながら、他に栗が出されていないことを知り、さて、正午にかえってくるメールがどれだけの売れ行きを知らせてくれるか?想像しながら、店を去る。
こんな一日がすぎる。
ススキノ殺人事件において、瑠璃容疑者、修容疑者、母親の三人が逮捕され、今月から半年間、精神鑑定をうけることになった。わたしは犯罪を犯したことはないが、心の中では何度も殺人、傷害事件、レイプを犯してきた。いわば隠れ犯罪者であるし、すべての人間は犯罪者であり、気違いである、とたかをくくってもいる。
隠れ犯罪者の視点からみれば、被害者には申しわけないが、今回の事件はあまりにも興味深い。それに、元精神科医が精神鑑定をうけるということはわたしが精神鑑定を受けることにも等しいことであり、保身性の強い評論家や権威者が述べる事とは違うリアルティがあると考える。簡単に言えば今回の事件は計画的なのか興奮状態における衝動なのか?が論点になるのではないか?異常な精神状態でなければ殺人行為はできないが、それは衝動的で精神耗弱状態だった、と認定され、無罪か減刑にされるにちがいない。
瑠璃容疑者は被害者から不同意性交をされ、復讐を計画していたのではないか?殺してやる!と考え、ナイフやノコを購入し、ホテルに誘い込むストーリーを考え、殺害時の血痕の消去、など詳細にわたって、まるで推理作家が小説を仕上げるように構想し、何度も想像して楽しんだに違いない。
ということは、計画的な衝動なのである。
いろんな事件において、計画的な衝動という状況がもっと取り上げられていいのではないか?
私の家は広く、時々、野良猫がすみかを求めてやってくる。二年前には白猫が自分の部屋の前までやってきて、私の顔色をうかがいながら、返事を待っていた。エサをくれれば入居の承認であることを知っていたのであるが、わたしは黙って見ているだけではっきりとした意思表示をしなかった。同居人が猫嫌いで忌避剤をまいていたこともあるし自分が面倒をみる自信もなかったので、白猫を受け入れることは出来なかった。
それから白猫は野菜作りをしている自分のそばにやってきたり、遠くから自分を観たりしていて、三年間がたった。私の身内の一人になっていた。ある時、白猫がクリの木の下に座っていたので近づいて、手を伸ばして誘いをかけた。彼女(雌猫)は考えているようであったが、立ち上がり、静かに夕闇の中に消えていた。
それが最後の出会いになってしまった。猫が好きなのでよく動画を見て楽しんでいるがいまだに飼おうする決心はつかない。自分の寿命は近づいている。最後の連れ合いが欲しく、それは猫でも良いのである。いや、猫の方が人間以上に私を理解してくれるであろう。
またあの白猫が戻ってきてくれれば最後の連れ合いにしたいと考えるが、この二年、姿を見せないのである。
見返りて夜闇に消えし白猫や化身なりても訪ね来や
週に一日ほど、二つの宗派のキリスト教会に通っている。聖書は知れば知るほど発見が多く興味をそそられるし、聖書が出来上がるのに一千年もかかり、十二の使徒が完成に加わったことを知って感動した。人類の宝であると思うが、同時に疑問もわいてきた。旧約聖書の創世記から新約聖書のマルコ、パウロまでよんでみて、崩壊と再生の流れを認めることができた。ノアの箱舟、ソドムとゴモラ、エリコの壁、キリスト磔刑、その復活などの事件はそのことを示している。しかし、現在の事件、コロナの侵攻、ウクライナ戦争、ススキの殺人事件などの出来事に対してどの宗派も口を閉ざしていると自分は考える。
宗教は政治には関わるべきではないと思うが、宗教としての判断・解釈をするべきではないか?と考えた。なぜコロナが出現して多くの人を殺したのか?なぜプーチンはウクライナを攻撃するのか?なぜ、瑠奈容疑者は殺した後に首を自宅の浴室で保存していたのか?など俗人が解明しようとしてもとうてい解明できそうにはない。本来であれば至高者が登場するのであるがセクハラ、パワハラなどどいってさわぐ状況においては口を出すことをはばかる状況になっている。
繫栄しすぎる生物は食物を食い尽くし、ついには食うものがなくなって絶滅してしまう。食物連鎖の頂点に立つ人類は人類を襲うものがおらず増え続けるだけである。そこでコロナを登場させて人口の調整をはかったのではないか?同時に新しい世の中の誕生を意図したのではないか?誰が意図した?それは神ではないか?ロシアは崩壊するであろう。そして、新ロシアが誕生するであろう。従来の悪政を改善して立ち直るのである。
今の交戦状態は動的平衡の中の動の部分にしか過ぎない。人生においても挫折・失敗は成功への道の途上にしか過ぎないし。挫折失敗がなければ到達できない必要悪なのである。、
今日のヤフーのニュースで瑠奈容疑者が彼女の殺人現場をビデオに撮り、自宅の浴室に保管したその顔を自らが手で撫でている場面をまたビデオに撮った、ということがでていた。3時間のうちにナイフで刺し殺すことだけでも大変なことなのにそれをビデオに撮りながらであったということは信じられないほどのおどろきであった。初めて人を殺すことだけでも大変なのにしかもそれを計画的にやり、その行為をビデオに撮りながら、であるから到底で並の人間ができることではないはずである。多重人格であったからだと説明してもとうてい人を納得させることはできないであろう。浴室に保管していたことは自分は最初から戦利品としての認識があったと考えていたがそのとおりであった。これらの行為に肉親以外の第三者が絡んでいるのではないか?と考えていたがそうではないようである。これは小学校の門柱に生首を載せた事件に少し似ているが、それを超える事件に思える。
多重人格であるから容疑者は起訴はされないという意見が出ていたが、自分の殺人行為をビデオにまで撮ったことは多重人格とは認められないであろう。多重人格であれば自分とはちがう者が乗り移ってやったということになるが主・人格はビデオに撮った者なのである。だが、起訴されても多重人格の疑いがでて、執行猶予付きの刑になるであろう。父親の方もそうであるに違いない。
この親子は社会復帰した時のことを計画しているにちがいない。今頃は部屋の中で出版する本の構想を親子ともども練っているだろう。どこに何を書き、出版社をどこにし、売れ行きを考え、印税の額も考えているであろう。テレビに出演した時は何を話そうか?これだけは伏せておこう、などと考えているに違いないし、被害者の方に心が向くことはないであろう。被害者が瑠奈容疑者になにをしたか?これだけは最後まで隠し通すであろう。なぜなら、自分達の人生を投げうってまでして果たした事件であるから。
致命的な秘密なのである。
毎日が暑さにぐったりしている。庭の草を草刈り機で刈れば、五分もしないうちに体が暑さにいうことをきかなくなる。それでもほぼ九割(3百坪)を刈り終えたが、一か月前に刈った所は二十センチほどにも伸びている。お盆過ぎにはそこからまた刈らねばならない。
部屋で扇風機をあたりながら、リクライニング式座椅子にの転がっているのもつらくなる。
とまと、ピーマン、なす、ジャガイモなど出来ているが、店に出せるほどきれいな物はない。幸福なことにスイカはアナグマに食われず、成長していた。ところが一個を友人に千円で売り、はんぶんほどが熟していなかったと言われ、ショックであった。そのまま放置するのはもったいない。今朝、二個の小玉スイカをスーパーに持って行った。店頭の西瓜の値段を見ると、小玉でも千四百円の値札が貼ってあった。考えた末、一個を千三百円で出して来た。今日、売れなかければ、明日は半額にされるから売れ残りは出ないであろうが、お客さんが割ってみてもし熟してなければ返品するだろう。が、申しわけなくなる。自分には12時、15時、17時とメールが来る。
今日の楽しみはそのメールを見ることくらいである。
台風が来る前、クマゼミが激しくないているが、もうすぐお盆である。短い命だから激しく鳴くのであろう。
報道機関は熱中症を避けるためにエアコンを使うようにいつも言っているが、本当にそうなのであろうか?逆なのである。科学が快適さを生み、資本主義が発展し、エアコンを使い始めたから熱中症が起こったのである。それまでは熱中症という言葉はなかった。
地球は大気圏につつまれ、蓋をされている状態である。そこでエアコンをすべての世帯がつかいはじめればどうなるか ?室内は冷えるが熱気は外に出され、そこが高温になってしまう。これが熱中症をおこし、またエアコンを使うようになる。イタチごっこなのである。
現代文明はすべてこの構造の中に取り込まれているが誰も批判をしない。本来、病気にならないようにすべきなのにそのことより薬を生産し、治療をすることに重点を置いている。戦争は起こらないようにすべきなのに戦争が起こり、軍需産業が儲かるようになっている。命より金儲けが優先するのである。本末転倒である。
いつまでも反省もせず、破滅の方向に向かっていながら、そのことを指摘しない。そろそろ、このパラドックスに気づくべきではないだろうか?