ブログ - 最新エントリー
もうそろそろだな、と思いながら汲み取り口のふたをあけると、上の方まで溜まっていた。二ヶ月分ほどの生活の付けであった。
ひしゃくで汲み取りながらバケツに入れ、三十メートル先の畑まで持って行き、タマネギやアマクリナムの根元にかけてやる。ほぼ二時間はかかるので、休みながらやっていくが、近頃はいつまでつづくか、やがて付けは放置されたままになる、と心配にもなる。まわりに家がないので苦情は出ないし、自分は心不全防止の薬を飲んでいるので臭いはしない。
つい最近までみなこのようにして、人生と生活の付けをみずから自然に返していたが、いまではこんなことをする者はよほど離れた僻地でしかないだろう。落とした便は下水道をとおして処理され、海に流され、人々は自分のうんちさえ、眼で見ることは少なくなった。じぶんの汚れを見ることが少なくなり、トイレに巻く芳香剤の害を考えることはない。
便を野菜にかけてやると驚くほど元気になり、栗の根元にも最近かけるようになったので、四本のクリの木に1000個のクリがなるようになった。肥料代も助かるし、自然界に還元するわけだから、いいことばかりではないか?
人糞肥料を売り出すべきではないだろうか?鶏糞や牛糞はあるのになぜ人糞肥料がないのか不思議である。
ボロアパートの寝床の中で、女の声を聴いた。
「起きなさい!まだ寝てるの?朝よもう・・」
入口のベニヤのドアからであった。
付き合ってる女はいなかったし、約束もなかったが、起き上がることにした。
布団を押し入れの中に入れ始めると、二人の中年女が六畳間に上がり込んできた。
「こんな時は、女を押さえつけてやるのよ」
まったくく知らない女がそばに立っていて、古くからの知り合いみたいな態度であった。
「仕事は午後三時からなんで、これから食事をする」
と、自分は言いながら、その二人の女が誰なのか?もしかするとどこかで会ったかもしれない、こんなにしたしげに上がり込むには・・。
そこは神奈川県相模原市の、はるか五十五年前の光景であった。
女たちはすでにちゃぶ台を出して、座っていた。
「仕事は大変でしょう?」
「うん、ライン作業だけど手押しでやってるから楽だよ」
トラックのブレーキを組み立てていて、自転車で工場まで通っていた。
納豆と卵、ラッキョウをちゃぶ台の上にのせて、食べ始めた。
「これ、美味しそうだね!」
若い方の女はいうと、爪楊枝を伸ばして、口に入れた。
母親の手作りで福岡からおくってくれたものであった。ラッキョウは大好きで貴重品であったが、食べるな、とは言えなかった。もう一人の女も爪楊枝で取って、食べていた。
女たちが生命保険の話を始めたので、勧誘員であることがわかった。
勧誘の話を始めたが、まったく関心はなかった。
「彼女はいるの?」
「いない」
などの話を交えると二人は名刺を置いて、帰った。
それから、工場に出かけたのであるが、作業をしながら、まだ夢の続きを見ていた。
女達はもう一度、訪れたが、契約を断わった。
玄関ドアの鍵などかけたことがなかったのであんなことが起こったのであるが、あの時、布団の中に抱き入れたらどうなっていたか?想像するだけで楽しい。やはり、男と女がいるからこの世は楽しいのである。
四十代のある男が、自分の部屋を訪れるようになった。人の噂や店の評判、悩みごとなど、話は尽きない。彼はゴミ屋敷に近い部屋の座布団に座り、出された菓子を摘まみながら、のんびりした口調でしゃべり、話し好きの自分の舌は休むことなく動き続ける。彼は時々外の庭に出て煙草を吸い、小用を足す。
部屋の戻ると、本棚の埃だらけの本を見たり、ビデオをみたりするが部屋には暖房がないので寒そうなそぶりをする。エアコンがないんですね?といつも訊くので、必要がない、寒ければ服を着こめばいいし、布団のもぐりこめばいい。冬が寒いのは当たり前のことだ。動いてそばの畑を耕せば温まる、とこたえるが納得しないようである。そして、テレビは壊れたままなんですね?と言いながら、リモコンのスイッチを押したりするが、電池もすでになくなっているのである。困らないんですか?とたずねるので、スマフォで用は足りるし、無くても困らないと言ってやる。それでも彼は四時間近く、過ごして帰る。よほど、この変人が気に入ったのか、彼に行き場がないのか?わからないが、自分は話し相手が出来てうれしい。
そこで感じるのは自分が時代に遅れているということであるが、逆に、あなたはエアコンを使うことが地球環境を破壊していることに気づかないのか?言ってやる。すると、それはそうですが・・・・、と答えながら自分の習慣を変える気はないらしい。
今年の夏が暑すぎたことも彼はしゃべり、マスコミはエアコンを使って熱中症から身を護りましょう、と訴え続けた。それによる環境破壊については口を閉ざしているのである。
こんな、騙し合いは止めろ!と言いたい。エアコンを使うのは病人のみ、除草剤の使用は許可制にしろ!と言いたいのである。
昨日は大手スーパーでの、カート整理の日であった。週に一、二回ほどしている。が、雨の日は出勤のことでいつも思い悩む。土砂降りならポンコツ車をだすのであるが、小雨だとバイクで間にあいそうなのである。だが、バイクはエンジンに雨がかかると、途中で止まってしまい、信号待ちの時などはエンジンを吹かし続けなけれならなくなる。
仕事は午後四時から七時までで、帰宅の頃は真っ暗になっており、車の走る雨降り道をバイクを走らせるのは危険である。軽のポンコツ車はもうすぐタイミングベルトが切れるかもしれないという強者である。切れればエンジンはとまってしまい、今どれくらいの状態なのか?わからないから、いつも不安である。また、曲がりくねり真っ暗な車庫までバックで入れるのが怖い。
そんなことで、午後三時ころ、やみそうだと言う予報を知って、バイクを出した。予報通りやんで、帰りはいつものスーパーで半額になった弁当を持ちかえって食べることができた。
若い頃を振り返ってみると、もう最期かもしれないという危険には、四、五度であっている。直近では十年前の心筋梗塞であり、あと二時間遅かったら心臓はとまっていたのであるが、夕方であったため、五人の手術スタッフをそろえることが出来たので助かった。その前は、女とのトラブル・・。マンションから現れた車にぶつかりそうになって、後部席の女が、ぶつかる!と叫び、急ブレーキをかけた。女はむち打ち症になり、同時に持病のてんかんを起こしてしまった。およそ、二年間ほど入院した。退院したが退院できなければ自分が生活の面倒をみなければならなくなったかもしれなかった。不倫であったので会社に知れば解雇された可能性があった。
若い頃は、土方のバイトをしていて、建設現場のビルから転落しそうになったことがある。七階のフロアの端から鉄パイプがはみ出ていたので固定されていると勘違いして踏んでしまった。体が七階から落ちそうになり、両腕を端に掛けて体を支え、落下を免れた。
集金の仕事をしている時、前の車がいきなり左折し、追突しかけたことがあった。それから、女との三角関係を起こし、男に殺されたかもしれないこともあった。
修羅場をふんだ人生だった。
そして、余命をひかえた76歳の今、あと五年で無事に、死ねそうなのである・・・・。
この日記に書いているようなことを普通の生活の中でしゃべると、むずかしい話ですね、とかずいぶん変わったことですね、とか言われてほとんど相手にされないことはわかっているが自分はしゃべり続けます。昨日、こんなことが思い浮かびました。赤ん坊はにはなぜ歯がないのか?今日になってその答えが思い浮かびました。それは赤ん坊に歯があれば母親の乳首をかみ切ってしまう。だからすこし成長するまで歯を神が生えさせないのだ。こう考えるとすっきりしました。舌に美味しい感触を与えてご飯を食べさせ、腐ったものをまちがって口に入れると不味さを与えて吐き出させる、手をきってしまうと真っ赤な血を出させて注意をさせる。ライオンやトラは満腹するとそれ以上、鹿や野牛を襲いはせず、チンパンヂーの子供がいれば体を舐めて愛してあげる。すべての生命はつごうよく生きていけるように作られているが、人間は快楽と利便性のためにその仕組みを壊し、大食いをし大酒を飲んでしまい、戦争をし、病気になり、それを広めて地球を壊して行っている。
産まれてすぐに歯がはえた赤ん坊のように、母親の体を食いつぶし、殺してしまっているのが現代人であり自分なのです。年老いて食欲も減り、相手を食うことがなくなってはじめてそのことが目に見えて来ましたが、老い先は短くなってしまっているのです。
毎日、草刈りや野菜作りをしているからこそ、生命の素晴らしさと仕組みが見えてきました。
昨日は管理をまかされている空き地の、草刈りをした。200坪の広さである。生まれ育った土地であったが、借地であったために地主に返し、遠方に住む地主から管理を任されていた。年に三度は草刈り機で刈っている。一か月前に三分の一ほど刈ったが、残っていた。カヤやブタクサなどの強豪が背丈ほどにも繁り、子竹が伸びて燐家の日当たりを遮っている。
雑草の逞しさにはいつも驚かされ、あと何年かすればもう太刀打ちできなくなってしまうことが予想される。手入れもされず肥料ももらえないのにあれだけ生きる力を持っているなんて、感動するだけである。二時間かけて残りの半分を刈り終えると、もう一回で、全部終わるという解放感がわいてきた。
帰宅してソファに横たわり、缶ビールを飲む。美味しさに感謝するのみであった。
クリスチャンの友達から電話がかかってきた。
ズボンにイノコヅチが張り付いて、太ももを刺して、せがんでいたので取り外し、それを友人に説明しながら、なぜ、イノコヅチは人を刺すのか?と問うたが答えは出なかった。おれの体を取り外せ!と言っていると言ったが彼はわからなかった。そのことによってイノコヅチは空き地から三百メートル先まで運ばれ、種を増やすことができるんだ。
彼はわかった、とこたえた。
聖書に精霊という言葉が出てくるけど、イノコヅチとか植物は精霊じゃないか?心や考える力があるんだよ。
なるほど、と友人は言った。
だけど人間が除草剤をかけたり遺伝子組み換えをやったりして弄ぶから、復讐をし始めているんだ。聖書に禁断の木の実の話があるように人間が自然の教えに反抗したから永遠に生きるはずの命を失ってしまったんだ。コロナが起こったのも自然の復讐の一つだよ。おれが鼻炎と喘息で悩まされているのもそうだよ。
そんな話をすると、彼はこのホームページのブログをモウ一度読んでみると言った。
東京生活をあきらめて帰郷し、四十年になる。初めは珍しかった人や自然と親しみながら、今はすっかり溶け込み、田舎に戻って良かったとつくづく思う。親とまわりに反抗して家出同様であったが、元のさやにすっかりおさましまい、遠出はしなくなった。
自分は老いながら、まわりの変わりようは早くなっている。昆虫の数も激減し、遊歩道を行きかう人も挨拶をしなくなった。メディアがすごい勢いで変わり、よく見ると視聴者への印象操作が増え、事実なのか洗脳なのかの区別が難しくなっている。ロシアや中国への嫌悪など明らかに感情的な報道が目に付くのである。メディアは冷静な視点とスタンスを失ってはならないはずなのに野次馬的な面が見えるようになっている。セクハラ、パワハラ、著名人のスキャンダルなどが多く、大事(環境問題、世の中を動かしている組織)などを見逃している。
世間では人々の喜怒哀楽がほとんど消え、笑い声も怒り声も泣き声も聞かれなくなり、野良犬、野良猫なども見かけなくなった。かれらはこっそりと処分されている。そして、IT異常な発達ぶりである。それは便利さを与えてくれると同時に人間の労力・エネルギーを奪い取っている。
このままの流れが進んで行くと、人は考えることも体を動かすこともしなくなり、消滅してしまうであろう。今こそ、人々の否定する、無駄や労力や、遠回りなどに価値を見出し生命の本来の力を見出すべきである。悩むこと苦しむこと、病気になる、失恋すること、貧乏になることににも価値があるのである。
そのままけっこう、である。
昨日は、午前十時から午後一時まで、大手スーパーで、カート整理の仕事をした。三時間の仕事なのに近頃は、脚に故障が生じて動かなくなるんじゃないか?と怯えている。お客さんの中にも高齢者が多く、不自由な歩き方をしている人を見るし、あれは何年か先の自分の姿だと考えてしまう。もし動かなくなれば仕事をやめるしかないし、生活の困窮は目に見えている。
現場の店には新しく大手電気店がテナントに入り、割引期間中なので駐車場は満車であった。近頃は客足が減り、店長は従業員でその仕事は間に合うといって、月に二日間は出勤日数を減らしていたのであった。
昨日の火曜日はポイントデーでもあって、十時半頃からレジのそばで動き回るお客さんの姿が増えた。十か所のレジ前、三か所の出入口、駐車場の五か所と歩き回って置き去りにされたカートを手で押して運ばねばならない。気候は涼しくなったのにシャツは汗にまみれ、息をつきながら、休憩なしで歩き回る。一万歩以上である。客の流れを見ては素早く休憩場に逃げ込み、水を飲むが、そこはロビーなので店長から禁止されている場所なのである。
仕事をしながら、終わったら何を料理して食べようか?と考えるし、今日の仕事が終われば四日間休めることに期待がふくらむ。
十二時過ぎると、客足が減ってきた。彼らも昼食をとるためだ。
十三時に交代者が来て、自分の仕事は終わった。
バイクで走って別のスーパーに行き、考えていたラーメンの材料を買い、帰宅する。麵を茹でて、食べ、美味しかった。
本来はそれからたっぷり休むのであるが、体はじっとしていなかった。庭の草刈りをしようと部屋を出たが、部屋の前の日本庭園、そこに伸びていた、ヤブガラシが気になり、鎌で切り始めた。すると、しだれ梅の剪定になり、けっきょく夕方までかかってしまった。
風呂に入り、食前の酒を飲む。体を座椅子に伸ばして、スマフォで天童よしみの(夕月おけさ)を聴き
ながら、歌う。仕事前の不安はふきとんでいる。
カート整理の仕事は戦場であったのだ。あれは生きるための戦争であった。
ウクライナ戦争が小康状態になった?と思っていたら、今度はイスラエル戦争が始まった。数百万人の犠牲者が出ると報道されながら、やめる気配はない。
もしかすると、戦争は人や国を強くする、そのために戦争が起こるのではないか?
と、そんな事を考えてしまった。
だから、怖いのである。
だいぶ涼しくなったせいか体調も良くなった。頭のふらつきも消え、足腰のふらつきも減ってきた。庭の草刈りをし、雑草といっしょに生えていたニラを売ってわずかな金にもなった。もみ殻も売れるようになったのはお百姓さんたちが畑仕事に力を入れ始めたからである。
耕運機が故障しているので、クワで畑を耕してホウレンソウ、だいこん、豆の種をまいた。すると、いつものとおり通り、ニ三粒しか芽が出ない。芽を出してから肥料をやろうと考えていたのだがいつまでも出ない。顔見知りのお百姓さんにそのことを話すと、暑さのせいで芽が出ず、三度も種をまいたという人がいた。それに自分が芽が出てから肥料をやろうとしたことが間違いなのか?と、思案した。それはネットで見ると、発芽の条件として肥料がのっていたからである。
だが雑草はちがう。ぎゃくに熱さに元気をもらったのか昨年以上伸びている。野菜の種をまいても野菜より先に芽を出して、背丈を伸ばし、太陽の光を奪い取っていく。野菜のために入れた肥料を吸収して元気になっていくのである。
どうやら自分は野菜作りの根本が出来ていないのではないか?とも考えたし、もし野菜が芽を出さなくなったらどうなるのだろうか?とも考えた。それは怖いことである。人類も全生物も消滅しなければならなくなるからである。
そんな話は四十年前にも聞いたことがあった。NHK受信料の集金先で、農家の人が、毎年米に農薬をかけよるが土が弱ってそのうち芽を出させんようになるんやないか?という言葉であった。
それから四十年がたった昨今である。土はどれだけ衰弱し力を失ったであろうか?人が環境破壊を繰り返してきた四十年である。
縁台に腰を下ろして、そんなことを考えていると、庭の地面に大きなクモが手足を大きく伸ばして死んでいた。ところが、動いていたのである!ぞっとしてよく見ると、見えないものの力が加わっているようであった。砂粒ほどの大きさの蟻が群れ、整然と列を組んで巣穴に向かって運んでいたのであった。
アリは自分の部屋にも菓子の食べ残しを求めてしょっちゅうやって来るので指で押し殺していたが、人が神輿を担ぐようなことまで出来るのか?とあらためて見直していた。
やはり、生命の力というのはすごいと感じた。
人間が単性生物から両性生物に変わったことはすごい出来ごとであり、その過程は胎児が一時的に中性の状態であり、それから男と女の胚珠が出て分離するということからも理解出来る。もしかするとLBGTの人々はこの分離が不完全であったのかもしれないと勝手な推測をしてしまうし、自分自身でも男と女の部分が混在してると思うことがある。
男女に分離したことによって途方もない種類の男女が産まれ、それが結合によってさらに多種多様な種類を産んだのである。だから、自分と異なる人間がたくさんいることに驚くことはないし、自分が変わり者だと呼ばれても気にすることなない。
自分は男であるが、女性というものが存在していることには、歓びと感謝しかない。もし、男ばかりの世の中であれば味気なく面白みのない社会になっていたであろうが、女は自分に刺激と悦び・満足を与えてくれる。が、ある種の怖さも与えてくれるのである。とんでもない女と一緒になってしまい、死ぬまで付きまとわれるとしたら自殺したくなるほどの日々を過ごすことだってありえる。
今、それを主題にして小説を書いている。
新しい発見が多く、退屈することはない。人間というものがこれほど不思議な対応と行動をするのか?と思い迷うが、よく考ええていく、となるほど、その時そこにはそんな意図があったのか?とわかっていく。人間観察は心理戦でもあり、では自分はどうなのか?と疑問を突き付けられるのである。外交や戦争なども同じ次元のできごとであり、相手の心理を正確に読んだ方が勝ちなのである。
太平洋戦争でアメリカに負けた日本などは典型的な例であり、今のロシア・ウクライナ戦争も相手を読み切ったほうが勝ちなのである。男と女もそうである。相手の心を読み切った方が勝ちで、その点今の自分は敗残者であるが、それは勝者以上にいろんなことを学ばせてもらった。
ともかく、人間界は自分もふくめて面白い!の一言に尽きる。