ブログ - 20220901のエントリ
相変わらず、一人住まいのニート生活を送っているのはそれしかないからである。週に三回ほど、短時間のアルバイトをし、あとは農作業と買い物くらいである。暇だから考え事をする。さて、夏が過ぎ、秋が来て新しい年を迎えるのか?なにをしようか?
だが、待てよ、おれはあと何年生きるのか?今、75歳だけどオヤジはたしか75で死んだと思う。するとおれはもう死んでも良い歳なんだな・・・。もうすぐ死ぬんなら二、三年先のことだって、もう関係のないことではないか?死期が近づけばいつ死ぬかがわかるというが、おれもそうなんだろうか?そんな気配はないが、死ぬのが怖くて首をつった男がいた。その気持ちはわからないことはない。
小説(予告された殺人の記録)の書き出しを思い出した。(自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは・・)という奇妙で不可解な文章で始まるが、自分が殺されるなんてわかっていたんだろうか?まわりの者達はサンティアゴは殺されると噂していて、そのとおりの結果になるのであるが、どこか恐い小説でもある。
自分が死ぬ日が予感であってもわかってしまうとどうなるであろうか?何人かの親しいも者たちに、お世話になりました、と礼を述べて行くだろうか?いやすでに布団かベットの中にいるのでそんな事はできないから枕元に呼んで手をにぎるかもしれない。
こんなことを書いていると、死ぬことが現実て的になってしまうが、現実なのである。死んでどこに行くかわからないから不安である。わたしはいちおうクリスチャンであるが、やはり母や父が迎えに来てくれるほうが嬉しいし、安心できる。イエスや神が迎えに来てくれてもしょせんは外国人である。
最近は、血汐、という母を肖像にした小説を書き始めたが、自分が年老いていくと、母のことを想ってしまう・・・・。その作品の中では亡くなった母と会い、生きてる頃に話さなかったことを話し、ゆったりした時間を過ごしたいと思う。