ブログ - 20220316のエントリ
春になり、うちの庭では、八重椿が咲き始めた。先週の日曜日の、礼拝時に、教会に持っていくと、女牧師が喜んだので、まだ蕾ですが、八重に開いてバラのようにきれいになりますよ、といった。聖壇の花瓶に飾ると、白瑞泉や梅の花を守るように背後に立って、見事な見栄えであった。
先週は、芥川賞受賞作の(苦役列車)を読み、すごく勉強させられ、いま、執筆中の(落ち花)のヒントになった。その作品は私小説であるが、ここまで作者の醜さを書いた作品はめずらしく、ふつうであれば単なる醜聞・手記としかみなされないものが、受賞したのである。主人公は中卒の男で、父親が性的事件を起こしてテレビにまで出、夜逃げをした小学校時代であった。中卒で東京湾の荷役作業をはじめるが、長続きせず、家賃をなんども滞納し、酒と暴力を繰り返す、母を殴って金をせびり取る。友達も女もできず、なんの希望もない生活の中で生きている。働いた金で女を買い、酒を飲み、あちこち歩き回るだけの作品で、自分の人生や社会の出来事を深く考えるわけでもない。
これがすごく私の胸を打った。
私の人生とほぼ同じなのである。
すごい作品に出会うと、自分のことが書かれているように思うことがあり、それが胸を打つのである。作者は授賞式で、この金で女が買える、みたいなことを喋ったが、一ヶ月前にタクシーの中で死んでしまった。原因不明であるが、肥満していたので淫蕩生活が原因であろう。
太宰治の私小説でさえ、醜聞を書きながらどこかきれいに見せようとしており、ほんとうの自分の醜さではない。本当の醜さというものはなかなか書けないものなのである。というより、それは作品にはならないのである。
今、書いている(落ち花)は女が主人公であり、(苦役列車)のように醜い部分を徹底的に書いて作品に仕上げたい。
それをこの作者は見事にうちやぶり、そんな俺のどこがわるいのか!と居直るわけでもない。淡々と書いているわけでもなく、細部は執拗に筆を進めている。それが命のエネルギーなのである。例えば追い出されて引っ越す先の建物や道順など作品の中身とは関係ないようなを事細かく書いている。それが作品にエネルギーを与えている。