ブログ - 20170402のエントリ
小説らしきものに取り組んでいると、体験や事実などをいかにテーマにデフォルメするか?に悩むことが多い。そこに葛飾北斎の絵や歌舞伎の演技、芭蕉の俳句のなどが思い浮かび、何故あんなスケールの大きい世界が作者に開けたのか?と考える。
荒海や佐渡に横たふ天の川
という芭蕉の句。海、地域、空とそれぞれ異なる空間が見事に感応しあい、世界を広げている。その作者の心の広さに現代人とははるかに異なる宇宙を感じてしまう。北斎のある絵。右手に小さな富士山が描かれ、左方に大波が波頭を広げて落ちかかっている。歌舞伎では歩く姿一つにさえ、大仰さと繰り返し、デフォルメなどが技巧をこらされていて、観る者を魅了する。ゴッホが浮世絵に感動し、技巧をまねたと言う。ゴッホの絵はシャガールやピカソ、ダリなどの超現実派に移行していくわけであるが、その前にそれが日本の江戸時代において先取りされていたと言う事は驚き以外の何物でもない。
江戸時代は封建制度の末期であり、幕藩体制の庶民への監視は、絹の着物は着てはいけない、来客に一汁三菜以上を出してはいけない、夜更けに出歩いてはならない、など監視網が張り巡らされ、抑圧されていたが、抑圧の中から生まれた抵抗のエネルギーであろう、その力は現代以上に強かった。
赤穂浪士の討ち入りは現実を舞台化した最後の炎であったであろう。
戦後の一時期を除いて現代の文化で後世に生き残るのがどれだけあるであろうか?というより、現代の文化はコピー文化と定義づけられそうに思う。