ブログ - 201606のエントリ
わたしたちは見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味あうものなど自分が感じるものしか存在していないと考えている。感じられないものはたくさんあり、それは膨大な量になり、知らない(存在しないと思っている)世界の方が多い。電波は感じないし、超音波も感じないし、匂いも数十メートル先までしか感じないが、テレビ受信機は電波をとらえて画像に変え、超音波もコウモリやMRIなどは感じて形として認識し、野生動物は数キロメートル先のものの匂いを感じて正体を読み取ってしまう。
そのことを知らずに人間中心主義・自己中心主義に陥っているから物事を見誤ってしまうことが多い。違う側面から、例えば自然界という側面、相手側の側面から分析してみると実態がはっきりわかってくる。わたしは野菜作りをしているので今年の自然の変異がよくわかる。タマネギは半数以上の農家で病気にかかり、葉が黄色くなり、芯が硬くなってしまい、ビワは寒波にやられてほぼ全滅になり、柿の実は成熟する前に落下し、東南アジアではバナナが病気にかかって収穫できなくなっている。昆虫類は二十年前の十分の一以上に減っている。
そのうちに野菜が出来なくなるのではないか、と心配する。除草剤を安易に使って雑草を殺し、連鎖した虫まで殺しているのだから・・、利便性を見直さなければならない。
野菜作りや野山の散歩をしていると、いろんな発見がある。雑草は虫に食われることはないし、病気にかかることもなく、冷害や日照りにも強い。被害にあってもわずかである。その代わり、栽培されてる野菜の多くは虫に食われ、病気にかかる。今年は病気に強いはずの玉ねぎも葉が黄色くなって病気にかかり、ビワは冷害をうけてほぼ全滅であった。栽培用の土に撒いた白菜もキャベツも芽を出さず、雑草に埋められた。
雑草のように逞しく、と言う言葉は的を得ている。雑草は葉や茎が硬くて食べられないように身を守り、悪天候にも強いし、虫に食われないように分泌物を出している。我が家のドクダミにはその強さと繁殖力には驚かされる。ドクダミはかじられることもなく、畑の全面を埋め尽くし、野菜は隠れてこっそり生きている。産直店に出せばドクダミは少しは売れるのでわたしにとってはまったく手間のかからない財産でもある。
雑草のように逞しく生きよう!
山道の小石の背負う人生よ
昨日、金毘羅山の裏道を散策しながら、坂道に転がった石に目をとめた。上記の句が浮かび、石の一生に人間の人生を重ねた。火山の爆発で溶岩が産み出され、冷えて塊になり、陽光や風、雪、雨に育てられて、変化・成長し、角が取れ、丸くなり、小さくなり、砂や土に戻り、最後は生命体と同じく元素になって生命体を作り、無機物に流転していく。生命体と変わらぬ生涯を送り、人生と呼んでもおかしくない。
その人生を活けてみようと考えた。(生け花)はすでに文化になっているが、(生け石)というのはない。(水石)と言って石を磨いて飾る文化もあるが、石そのままを鑑賞する習慣はない。お盆の中にいろんな人生の石を置き、俳句を添えて展示してみようと考えた。
町営施設を借りれば費用も安いし、手間も時間もかかりはしない。
さて、どんな反応が返ってくるであろうか?
(レア)であるからにはほとんど反応がないかもしれないが、それが(私ー石)の人生なのである。
振り返ってみればあんな子供時代があったなんて信じられない。親達が出払った昼間、隣近所の幼友達の家に行き、かくれんぼやお医者さんごっこをして遊び、親の引き出しの中からエロ本やペッサリー(女性用避妊具)を探し出したり、ずいぶん悪そうをしたもんだ。小学校に入る前の時代が一番楽しかった。
子供たちが夕飯のために帰宅する時はお互いの背中を叩いて、叩き合い、(バカ、カバ、・・屋、お前の母さん、デベソ!)と叫んで、別れた。(さげすみ)とは異なるニュアンスがあった。・・の部分は職業差別になるので書いていないが、その頃にはさげすみの意味合いなどありはしなかった。子供心の面白半分さであったが今の時代では言い訳にもならない。
時代がすべてを事細かに仕分けし、白黒をつけすぎるので、余裕をまったく失った。部分ばかりに気を取られて全体を見失ってしまっている。部分ばかりではなく、全体を見る目が欲しい。
人権は大事なものであり、否定する気持ちはありません。ただ、近頃のテレビドラマ、漫才、トークショウ、映画、小説などが面白味や感動、感激を失っているのは人権問題に過敏になりすぎているからだと考えられます。暴力に対しても同様です。
歌謡教室で女先生から、(しゃっくってはいけないとあれだけ言ってるのに!)とマイクで歌うわたしの肩が叩かれ、わたしも叩き返したことがあります。わたしは彼女への親しみと感謝の気持ちがあり、叩き叩かれても楽い思い出になっていますが、これがテレビ・ドラマの一場面になった場合はそうはいかないでしょう。観てる者がそのあたりの心理を理解していれば問題ではないのですが、クレームをつける者が必ず出てきます。放送局は、不適切な場面があり、申し訳ありませんでした、二度と起こらないように気をつけます、と謝罪し、そんな場面はカットするにちがいありません。
今の世は言った者が勝ちなのですが、言い返す者はいません。
わたしはこの場で言い返してるわけですが、言い返すことも大事です。言い返すことで議論が深まり、真実が現れてきます。その方向性が時代に要求されています。
この疑問はネットで調べると、持てない、と結論が出ている。彼らには本能がないから、自分たちの種を増やしたり守ろうとしたりする能力がなく、ましてや魂などデリケートな部分など持てはしない、と言う。
彼らは感情は持てるし、持っている。機械でも感情表現はしている。特急電車がさわやかな音を響かせて走ったり、20両も連結した貨物列車が苦し気な音を出したり、ユンボ(建設重機)が暴力的に地面を叩き、建物を壊したり、火山が荒々しく爆発したり、晴天のハイな気分、雨の日の鬱陶しさなど日常的に見られる。物質から生命が発生したのであり、アメーバ、魚類、両生類、哺乳類、人類へと進化し、魂というものを持った歴史から見れば人工知能が繁殖力、自己保存能力を持っても不思議ではない。
逆に、人間だけが持っていると言われる(心)(魂)について考えが及んでしまう。愛憎や嫉妬心、共生は動物世界にもあるが、喜捨や自己犠牲の精神はない。グーグルが自動運転の車を開発したりして、人工音声、介護ロボットなど人工知能はすごい速さで進んでいるが、人間の持つそれらの精神が希少なものに見えてくる。
障害者の会で、90歳の男性がペース・メーカーの交換のために入院している。彼は元気で、カラオケの会、グランド・ゴルフの会に出席し、散歩も毎日し、食材の買い出し、自炊もしている。ペース・メーカーは心臓の鼓動数を適切に指示する機械であるが、バッテリーが切れるので10年に一度は交換しなければならない。
知人の男性で、15年間、精神病院に入っている人がいる。若い頃は母親を殴ったり、近所での暴力事件を頻発させていた。今は毎日、治療の一つとして施設入居者の洗濯物を洗濯機の中に入れたりして、授産施設の個室で生活している。毎日、30錠以上の薬を飲み、それが彼の暴力防止の役目を果たし、フラフラした歩き方をしながらも生きている。外出は病院に届け、許可が出れば出来るので時々、実家の彼の部屋に戻ったりしているが、届けを出さずに病院から出ていくので病院から確認の電話が家族に入る。毎度のことなのである。届けを出すことを忘れるか無視しているのであるが、彼は60歳を超えていて、これでは退院は無理で、生涯を精神病院で終えることになるであろう。
彼の病気は治療でも薬でも治らないので、将来的には脳に人工知能が埋め込まれるかもしれない。彼の将来の計画、毎日、やらなければならないこと、その優先順位、してはいけないことなどがデータ化されてペース・メーカーのように埋め込まれるかもしれない。薬は不要である。
昨日の日曜日は(北九州歌謡グランドフェスティバル)を見に行ってきた。すごく楽しく、カラオケ仲間の歌唱を聞いて有意義であった。最後に作曲家の水森英夫氏が話をされた。彼は審査もされたが、次のように言われた。(その歌に取り組んで二か所くらいどうしても歌いにくいところがあったら、見切りなさい。うまく歌えるのは5曲くらいで、10曲も歌える人は歌手の中にもほとんどいません)と。
治らない精神病や精神疾患には人工知能が埋め込まれるようになるかもしれない。
先月はシャクヤクやビワ、梅飲の実などを産直店に出し、2万円くらいの収入になりそうである。生活費の計算をしてみた。国民年金が居候の分も入れて、月に10万円。週に一度食材の買い出しに行くので、それが一人4千円ほどであり、二人分で八千円、月にすると三万二千円である。電気代、ガス代、電話料金、保険料、ガソリン代、固定資産税など加えても10万円くらいである。井戸水なので水道代は要らない。旅行もほとんどしないし、風俗店にも行かなくなったので大金は要らない。本は町営の図書館で借り、映画はレンタルビデオで借り、アダルトDVDもそこで借りる。ローンも借金もない。
月に10万円で生活ができるなんて想像もしなかったが、実際に出来ている。
知り合いの農家の奥さんが産直店に漬物や野菜を出していて、売れる日で三千円だという。月にすれば9万円である。
池に行って小魚をすくおう。水草をアイスクリームの容器に入れて小魚といっしょにして産直店に出してみよう。7月は七夕であるから、今月の末には山に行って、孟宗竹の枝を取って、七夕用の竹を産直店に出してみよう。マンション住まいの子供たちが願い事を書いてベランダに出すであろう。
原料代はタダである。自然を楽しみながら生きていく、それが一番良い。
昨夜、オカシな夢を観た。大学生たちとイベントの準備のため、集まり、わたしはまな板の上で大根の塩漬けを包丁で刻んでいた。彼らは誰も手伝わず、友達としゃべったり、刻み方に文句を言ったり、非協力的であった。わたしは腹を立て、刻んでいない塩漬けを口の中に入れ勝手に食べ始めた。
昨日の夕食はチャンポンを作った。すごくおいしく出来て、満足していたが、四分の一カットの白菜を刻みながら、それを70円以下で出荷する農家の人に気の毒さを覚えていた。わたしも産直店に出しているので、クレームが来たり、売れ残りを引き取りに行ったり、嫌になることは何度もあった。
昨年、福岡教育大学の(日本事情)の公開講座に参加した。留学生たちがほとんどを占めていて、楽しかったが、女講師と一部の日本人女学生には不快感を持っていた。女講師はわたしが自由討論や質問の場で自分の意見を長くしゃべったりするので、自分だけでしゃべらないでください、と言った.
班の討論会ではまた同じことを私に言った。実はだれもがしゃべらないのでわたし独りがしゃべることになったのだが。レポート提出を義務付けられていたので出したが、評価はどうですか?女講師にたずねても、うん、と言葉を濁したまま返事をしなかった。各班の討論内容を発表することになっていたので、準備のために講義開始の前に集まって打ち合わせをしよう、と言っても学生は二人しか来ず、班がちがう班に合併されたり、講座に来なくなった学生もいた。発表の場は一人の受け持ちが二分間という持ち時間であった。わたしは(美の発生)というテーマで話し始めたが、終わりまで話さない内に、女子学生から、時間です、と言われ、体を突かれた。
上記の二つの出来事が重なり合ってあんな夢を観たのである。合理的に理解は出来るが、誰がどんな理由でその二つを結び付け、夢の舞台を設定したのか?ということに疑問を抱いた。大学の広場で学生たちがバンド演奏をしていたり、大学祭を開いて賑やかな場を楽しんだりしたことは事実であり、そんな体験が夢世界のイベントになったのだが、誰が現実体験を夢ドラマに仕上げるのであろうか?精神分析では、それは無意識だ、と答えるであろうが、仕上げるには意志と意図が必要である。ユングは偶然の必然という考えを持っていたが、なんらかの必然性があったのであろうか?偶然であったのだろうか?
追体験したいという願望と不愉快な気持ちが入り混じったのであろうが、それにしても印象深い作品であった。異次元宇宙での光景が重なり合い、過去の出来事は違う宇宙で生き、進行しているのかもしれない。
夢とは不思議な世界である。