ブログ - 20150306のエントリ
鳥羽一郎の歌う(男宿)をユウチュウブで聴き、いつも涙を流している。感情を抑えた歌い方もさることながら、淡々としたメロディと歌詞が素晴らしく、驚くべき素晴らしさである。なぜこんなに感動するのか考えるとしだいにわかってきた。
まず歌詞の内容がふつうの演歌とはちがう。わたしがこの女が好きだ、愛した、などはいくらでもあるし一般的であるが、この歌詞は、俺から逃げてあの男を愛せ、幸福になれ、と歌っている。自分の欲望を捨てきっている。歌詞の一行一行が散文的ではなく、飛躍し、凝縮されている。この作詞家は女性だが、女の立場でこんな詩が思いつくというのが凄いし、才能がある。その感性にわたしは惚れこんだ。
戦後に産まれわたしは三度の食事を食べられなかったことはない。戦争で数百万人が死んだ犠牲者の上で旨い飯を食い、高度成長期の波に乗って飲む、打つ、買う、の快楽を貪ってきた。欲望を満足させるのが資本主義であり、個人主義(私)の世界を謳歌してきた。
日本文学において、明治時代以前には(私)という言葉自体がないし、(わたし)という表現もない。世界的にも珍しい世界である。夏目漱石の憂鬱な表情を思い出す。手首を顎にのせ首を傾けた表情は資本主義を臓器移植された憂鬱さである。明治以前にそんな表情の人物画はないが、その時代から、原発で世界が滅亡するかもしれない時代になってしまった。
(男宿)を聴いて感動するのは、もうそろそろ(私)を捨て、(私)のいない世界があっても良いのではないか、ということである。若い日人は個人主義の欲望を満足させ、それがどんなものであるか経験することも大事であるが、60歳を過ぎたら自分以外のことにもエネルギーを向けるべきではないか。(私)も含めてあまりにも自己中心的な老人が多すぎる。