ブログ - 20131106のエントリ
毎月、病院に通っている。血液検査を受けて、30項目ほどのデータを出してもらう。中性脂肪以外はほとんど合格点であるが、それは薬を毎日12錠も飲んでいるおかげである。飲まなければ血液が濃いくなり、細い血管が詰まって多臓器不全で死ぬことになる。まあ、薬のおかげで(死)の猶予をもらっているわけであり、誰でもいつかは死ぬわけだから早いか遅いかの違いでしかない。
わたしを診察してる医者に訊いてみた。
「先生、安楽死の手続きはここでもできるのですか?」
60にちかい彼はおどろいたのか、しばらく返事をしなかった。
「それは入院してる状態じゃないと出来ません」
「はあ、そうですか」
とこたえた私はその場ででも安楽死の手続きをしたかったのだが、出来なかった。次は献体について尋ねた。献体をした場合、葬儀は病院がするかどうかだったが、死体は必要がなくなった段階で遺族に返すと言うことだった。
その二つの答えをもらって納得した。
バイパス手術をしてもらった病院、その病室のベットに鼻にチューブを差し込まれて(食事をしていた?)患者がいた。呼吸が苦しかったにちがいない、彼はよくチューブを手で外した。看護婦が何度も注意をしたが彼はやめず、ついにはボクサーがつけるグローブを両手にはめられた。これでは指が使えず、彼は一日中眠っていた。
あれから一年もたつが、彼はどうしてるだろうか?生きているか?死んでいるか?
俺はこうして生きていて人間並みの生活をしているが、(死)の不安がよぎる時がある。ある意味で入院中は死ぬことが許されていたが、娑婆ではそうはいかない。(死)は忌み嫌われ、戒名をつけて消さなければ生きてる者たちの邪魔で迷惑な存在なのだ。だから、入院すると(生)から解放されてすごく気分が楽になる。
今日はいつもの山道を散歩しながら、(死ぬのではない、この世を消してやるのだ)と考えた。これは(現象学)に凝っていた友人からの発想であるが、正直、そんな気分になった。死ねば意識が消え、見ることも聞くこともできなくなるから、外部世界も消えてしまう。
アメリカとの戦争に負けた日本は(死)にたいしてすっかり臆病になった。武士道や特攻隊を美化するわけではないが、もっと積極的に死を受け入れても良いのではないか?これまでいろんな人々に支えられ良い思いをさせてもらったのだから、世間にたいして恨みがあるわけではないが、(もう十分だ、満足した)と三行半をつきつけてやりたい、いつでも。