ブログ - 20131103のエントリ
誰が使いはじめたか知らないが、(耕作放棄地)とは奇妙な言葉である。昔から放棄された土地はいくらでもあったが、そんな名前など付けられなかった。そんな不名誉な言い方をされる土地が気の毒になるし、以前は(荒地)という立派な詩の団体さえあったのだ。
近頃は聞かれなくなったが、(古新聞、古雑誌、ボロキレなどありませんか?画像のみれないテレビ、音の聞こえなくなったラジオなどありませんか?)と声をかけながら廃品回収業者が回っていた。それは(動かなくなったオモチャ)から(動かなくなった人間)にまで進みそうな予感がする。
もとの話にもどると、(自然)とは人間が関わらないから(自然)なのであって関わってしまえば(自然)ではない。耕作放棄地という言葉は(人間が関わらないものの存在、役に立たないものの存在はは認められない)という尊大さを含んでいるし、(自然)や(自然状態)をも否定もしている。
まさに現代の資本主義を象徴する言葉であるし、この時代が生んだ言葉である。
こういうわたしは700坪の宅地の片付けが終わり、耕作放棄地に通いはじめた。約1000坪ほどの広さであるが、春に竹の子堀りに行くだけであとはほったらかしである。孟宗竹が生え放題で暗く、谷間に近い地形でおまけに石ころだらけである。チェーンソーで立ち枯れや生きた竹を切り、倒していくのだがエンジン・チェーンソーの使い方になれず、チェーンが外れたり竹の切り口にかんだりして苦労した。最初は中国製の安物チェーンソーを使っていたので何度も販売店に行ってエンジンをかけてもらったりしたが、ついに二度も返品し、買いなおした。
枯れた竹は集めて燃やした。今では作業も順調に進み、竹と竹の間が傘をさせる広さにもっていけそうになった。陽の射すきれいな竹林が出来そうである。
だが民家から300メートルも離れたここに誰が来るだろうか?と考える。初夏から9月まではヤブ蚊に襲われ、冬は寒いばかりである。竹の子が芽を出す頃はイノシシの運動場になり、人間が探すより先に食べられてしまう。
だから、(耕作放棄地)なのですよ、と石ころ達は言っている。
それはわかる。しかし、わたしにとってはそんな場所が(希少)なのである。誰も来ない所、何も無いところ、時々竹の鳴る音が(カーン)と響くだけの無音の世界、なんとも言えない自然の空気がある。開発に押されてそんなところは消えていっているが人間に酸素を補給し、pm2.5から守ってくれる貴重な存在なのである。
こんな所、こんな人々こそわたしの友達なのである。