ブログ - 20121128のエントリ
遠賀郡で今反対運動が起こっている。現町長が次期の当選を狙って以前からストーリーを組み立てていたのだが、E駅南口開発の事業計画を持ち出し,建設業者に21億円の金をばらまき票をとって次期町長として居座ろうとしている。彼が言うように南口を開発し、金比羅山のノリを削って道路を作り、地下通路をもうけ、駅前広場をつくったとしても利用者はいない。わかっていながら彼は支持団体に操られているだけである。はっきりいってしそんなことはどうでもよく、納税者の懐から金をかすめとればいいのである。有権者の20パーセントが反対の署名をしていても操り人形は意に介しない。
反対運動を起こした女性議員がいて一生懸命に活動をしている。スーパーマーケットやE駅前で市民に呼びかけていて、無償の運動員が頑張っている。かれらは日当が出るわけでも交通費が出るわけでもなく、自分の主張を通してもらうためにビラを配り、開発の理不尽さの説明をしている。女性議員は町長選に出るつもりであるが、運動員は(これは女性議員のためではなく、自分のためであると考えている)から無償の行為ができるのであり、これが本当の選挙活動である、と考える。日本の場合、選挙活動に金がかかりすぎるからあとで取り戻そうとして(利権)に走るのである。
わたしは恐がりやで、小学校の頃から夜トイレに行くのが恐かった。幽霊は本当に存在していて、部屋数の多い我がボロ家、そのトイレに夜遅くもちろん一人でだが行き用を足すことは苦痛であった。二年前、63歳のときだが、その時は小便をして便所からもどり自室に入る戸を開けた時、背後から右の背中を掴まれた経験をした。その感触はまちがいなかったのである。
物理科学に詳しい知人から、(霊とはエネルギーだよ)と教えられて、なるほどと思い、自分なりに考えを推し進めていった。(霊とはエネルギーの残りなのである)と近頃かんがえるようになった。例えば普通の生活でも談笑していた相手が去った時、その椅子にはその人の体温とか匂い、つまり余韻が残っていますよね。それがエネルギーであり、(霊)なのですよ。ある人が部屋で孤独死したとすればそこには(気配)が残っている、それが霊なのです。そう考えると別に特別なものではありません。
幻想、幻覚、宗教の世界も霊的なものである、と考えます。ある意味で人間の聴覚、資格、味覚などの感覚器官は幼い頃から世間常識に教育されて出来上がったものです。この臭いは臭いものである、とかこの味は美味しいものである、とか、この景色は美しいものであるとが、この曲は心地よいものであるとか、植えつけられたものにしか過ぎません。ある時、夢や半覚醒状況において物事を感覚器官を通さずに感じ取ったとき、その世界の臨場感、素晴らしさに驚かされてしまい、虜になることさえあります。それは既成概念に毒されない純粋世界なのです。この世界にはまった人が信者であり、それが私たち一人であっても不思議ではありません。
宗教のない時代はないし、宗教のない世界はありません。その意味でわたしは宗教を否定する気はありませんが、一神教だjけは否定します。