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昨日、精神科の授産施設に知人の男を訪ねた。63歳になっている。躁うつ病ですでに20年間も入院し、このままでは一生をそこで終えそうな、あるいはその前にわたしの余生が終わりそうな気もした。入り口から声をかけたが返事をかえしたまま、出てこない。出てきたので顔を見ると険しいウツの表情だった。具合が悪そうだからこの次にしよう、というと彼がうなずいたのでわたしは停めていたバイクに戻った。背後から、話をしたい、という声が聞こえ、彼の部屋に上がっていった。
わたしの近況を話した。彼は薬を日に35錠も飲み、副作用で階段から転げ落ちたりして、施設長から外出をとめられている、と言った。薬が副作用をうみ、副作用をなくすためにまた薬を増やし、それが副作用をうむ、という負の連鎖だとわたしは読んだ。そばの自動販売機にジュースを買いに行くことも止められているという。
(双極性障害B型)という病名だと言うので、ネットで調べると躁鬱病の名前が変わっただけだった。ウィキペディアを読むとこんな文面に出会った。この病気の原因は2020年までには分子レベルで解明される予想だと言う。文部科学省の見解だった。やはり心の動きは物質に起因していた。
かれの部屋の階下に住む男性が入り口に現われたので彼とも話しを交えた。彼も双極性障害であり、アダルトチルドレン病だと言い、わたしは後者の病名に興味を持ち、ネットで調べた。父親がアルコール依存症だったりして劣悪な家庭環境で育ったため精神の発達障害がある、とあった。わたしにぴったりの家庭環境と私の性格だったのでおどろいた。わたしはなんとか社会生活を送っているので施設に入ったり入院もしていないが、好奇心もあって入院してみたいと想像したりした。
(風見鶏)というのは鳥の形をしていて風がどっちから吹いているのか方向を示すものだが、わたしの人生経験から言えば日本人の90パーセントを占め、多数派になっている。会議や会合の場ではいっさい意見を言わず意思表示もせず、その場の風向きにまかせている。仕事は真面目にやり、家庭も守り、人付き合いも当たらず触らずの等距離を保ち、イベントや出ごとにもきちんと顔を出し、陰口は叩く。日本国内では彼らは信用され親しみをもたれているが外国人の視点では薄気味悪いと言われてる。自分の信念が社会通念とシンクロナイズしているので、戦争が始まると戦争万歳と言い、敗戦になると戦争反対と叫ぶのである。
彼らは健常者と呼ばれ、精神障害者と呼ばれることは絶対にない。権力体制側の被搾取階級だから権力にとっては大事な(飯の種)なのである。わたしはかれらを風見鶏症候群と呼び、標本箱の中で学名をつけ、分類したい。
週に一度、英会話講習に通っている。楽しいし刺激的である。新しい発見もあった。日本語と比較して英語はなんと簡潔であろうか!ということである。私、を指す場合、日本語には、僕、わたし、俺、自分、手前、拙者、などたくさんあるのに英語では1しかない。あなた、を指す場合でもそうである。painterという言葉は画家を現すと同時に塗装職人も現している。これはやや荒っぽいと思うが。
簡潔な言語だから世界に普及しやすく広まっていった。グローバリニズムという帝国主義で世界を征服し始めている。それはアメリカという国であるがそれを非難しようというのではなく、理論づけをしたいだけである。私みたいな無名の男をCIAが暗殺しようとすることないであろうし、話を変えればイスラム国をテロ国家だと非難するアメリカはフセインやビンラディンなどを裁判もなく殺しておいて自国が平和国家だといえるのか?
日本が太平洋戦争でアメリカに惨敗し今も被占領下にあるというのはアメリカという国の強さに他ならない。黒人、メキシコ人、韓国人、中国人、欧米人などアメリカは人種の坩堝である。言語、肌の色、宗教、生活習慣が異なる民族が同居し、大統領に黒人がなっている。多様性の国である。これが摩擦や刺激を生み、エネルギーの根幹になっている。英国人はアメリカ、オーストラリア、カナダを侵略し原住民を淘汰していった。その一つに日本も入っているわけだが、距離がはなれすぎていることもあって淘汰まではされなかった。
太平洋戦争に話を戻してみよう。日本の敗因はいろんなとらえかたがあるが、狩猟民族VS農耕民族だったとわたしは思う。馬に乗って野生動物を追ったり、通り道に待ち構えて銃で撃つ、あるいは囲って放牧する、それを日々の生活にしている民族とクワをふるって畑や田を耕し春夏秋冬の季節で作物の生育を計る者が闘った場合、勝敗はすでに決まっていたというわけである。
だが、勝つ者久しからず、という言葉がある。東洋思想であり農耕民族の視点である。それを腹の中にすえて世界の動きを俯瞰してみよう!
新聞やテレビでも憲法論議が盛んである。交戦権を認めない日本国憲法は素晴らしい!安倍政権に交戦権を認めさせてはいけない。世界の人からも日本の平和と非戦を認められ、うらやましがられている、など百花繚乱の賞賛である。共産党の赤旗でさえそんな書き方であり、そんな風潮の中で交戦権を認めろなどと言うのはよほど勇気のいることである。ここでどのマスコミも識者も指摘しないことがある。日本はまだ軍事的にも政治的にもアメリカに占領された状況にあり、憲法でさえアメリカに押し付けられていることである。憲法で交戦権を認めないと言う事項はアメリカに対しても牙をむけない、ということで鎮座している犬の姿勢なのである。鉄格子の中に閉じ込められていて外敵も襲えない状況の下で憲法は生かされているのだ。これが素晴らしく、生きていると言えるのであろうか?虜囚にされていることなのである。ここを踏み違えてはいけない。まず被占領状態を解いてから憲法論議をすべきである。
今、大学の公開講座で基礎物理学を学んでいますが、真理に出会いました。アルキメデスの原理、パスカルの原理、重力の法則などです。それらは高校の物理でも習っていましたが真理であることに気づいたのです。千年も前に考え出されたものがいつの時代にも通用し、どの世界どの民族、自然界においても否定出来ないものは真理なのです。
そのような真理は自然科学の世界には多いのですが、社会科学の世界においてはそこまで敷衍されてはいません。マルクスの「資本論」は真理に近いことを書いていますが現実世界においては適用できませんでした。中国においては共産党が独裁権力を握り、結局は利権を取ったに過ぎず、権力の移動にしか過ぎなかったのです。
力は正義なり、この言葉は真理です。金をばらまけば(利権、生活権、利益など)人は必ず集まってくるし、投票もします。これが政治権力になります。多数は数が多いので強いベクトルを持ち、彼らの考えや意見が正義になります。軍備力が世界一であればアメrカのように世界を支配し、アメリカの言うグローバリニズムが正義になります。日本は軍備を持たないから素晴らしいという人が時々いますが、アメリカがその代行をしているにすぎないのです。魅力、も力なのです。美しい女、美しい心、美術には人が集まります。10年ほど前に東京でダリの回顧展を見に行きましたが、一枚の絵の前に学生たちが一時間近くも立って見入っていたことを思い出します。
格言やことわざの中に真理が存在してることがありますが、それらが数式で現れる日を待ち望んでいます。
このタイトルに関することは以前にも書いていますが、民主主義に奇怪さを覚えてまた書きます。こんどの日曜日に町会議員の選挙があるので候補者達が車で回っています。この町を良くするために頑張ります!と叫んでいますが、議会の傍聴や住民投票運動に関わったわたしは石でも投げつけたい候補議員の声も耳にします。傍聴席から異議を唱えただけで警察を呼んだ議長、費用対効果を考えたら町の運営は出来ませんと言った議員、一言も発言しない女議員、議会で発言する言葉がないので副町長にいつも質問書を書いてもらってる議員、いつも町長にべったり張り付いている議員などろくでもないヤツばかりで腹が立つ。皆さん、わたしの生活のために票をください、息子さんを町職員にしてあげますよ、とでも言ったほうが正直である。かれらは公僕でもなければ多くの人のために奉仕するものでもない。単なる利権屋でありブローカーなどである。・さんは良い人だから票を入れてね!んどと言われて票を入れることも一般的なことである。
投票率が30パーセントであれば70パーセントは反対してるわけだが、それでも政治家になれる。では一人しか投票しなくて、立候補者である本人の名前を書いても当選するというわけだ。
どこが(民)が(主)なのであろうか?当選する者は利権の巧妙なパイプを持っているものであり、それが政権与党である。投票率が下がり、立候補する者が減っているが権力を握った者はそのほうが自分達が当選しやすいので改革する気はまったくない。国会でも町議会でも議案は多数派が作りすべて成立する。これが民主主義と呼ばれ素晴らしいものだと生まれた時から教え込まれていく。なんと奇怪なシステムであろうか?
昨日は福岡教育大学に行き、演劇部の「スイート・ミード・トリッパー」を観た。高校卒業・大学入試・演劇部の活動・恋愛と錯綜する多感な時代を取り上げた舞台だった。演劇を観るのは初めてに等しかったが、現在執筆中の小説へのヒントにも出会え学生達とも親しくなれると考え、竹の子をゆでてる最中であったが中断してでかけた。その大学の公開講座「基礎物理学」にも通っているし、以前の仕事の関係上学生たちの生活のことも知っていた。
すごく面白かった。一般者も交えて60人ほどの観客が入り、満員であった。若者らしくきびきびした演技で繰り広げる世界はエネルギーに満ち、自分の学生時代がよみがえって錯綜し、感激した。あんな時代があったと思うわたしは余命を控え、夢も磨り減った昨今である。わたしのその時代は大学は全学連に占拠され、マイクでがなる声がキャンパスに響き渡り、リンチ殺人が起こり、機動隊の催涙弾が飛び交い、一撃の必殺の空手同好会ではリンチを受け、マージャンに狂い、アルバイトで土方をやり、女を買い、友達の部屋に泊まりこみ、と振り返れば凄まじい青春であった。
教育大は八重桜が満開で春が訪れ、広いキャンパスで学生達が静かに歩いていた。剣道部で気合いが飛び交う場所以外はなんとも静かで逆に物足りなさと不安起こさせた。演劇自体は活発でディテールの会話のやりとりが面白かったが恋愛心理、その複雑さ、意外性、不可解さが足りず、主題のインパクトにやや欠けていた。わたしの現在執筆中の作品あるいは(恋愛とは化学反応である)という意外な考えなど挿入するともっと面白かったのではないかと想像した。
公開講座も二度目を2日前に終えたが面白かった。進学高校での物理学は方程式・練習問題だらけで物理学の本当の面白さは味わえなかったが、福岡教育大学の場合は教員志望者が多いので(教え方を教える)というマニュアルが入っているようで、アルキメデスが浮力を発見した経緯や自動車のブレーキを踏む場合にはパスカルの原理が利用されているなど日常生活に絡んだ講義の仕方をするのですごく面白かった。ただ先生は受け持ち領域しか知らず関心もないせいか、「光と熱によって物質が発生したとネットにのっていましたが、物質の発生にっよって時間と空間が産まれたのですか?」「作用・反作用の法則はわかりましたが滝の水がつぼに落ちる時にも反作用が起きるのですか?」「中世までは物理学と哲学は一つだったのですがどうして分離していったのですか?」などの質問には明確な回答がなかった。やはり専門性の狭い世界に閉ざされていて、専門家が総動員されて出来た原発だって東北大震災のような惨事を起こすことがわかった。今度は大学総長に会って専門性の起こす惨事について話をし、教育改革、資本主義・民主主義(金権主義)について討議をしたい。
わたしの家の隣は田んぼであり、地主がいつも除草剤をまいていた。彼とは幼い時からの顔なじみだということもあって黙認していた。ある時、「うちの家は井戸水を使っているのでそんなものをまいてもらうと困る」と言った。「除草剤は害はありませんし、国の法律でも認可されています」と彼はこたえた。「じゃああんた、除草剤を飲めますか?」「飲めるはず無いじゃないですか!」「草が死ぬということは人間にも害があるということだよ」「大気中に消えるということですよ」「消えるはずは無い。地球は大気圏でフタをされてる状態だから拡散するしかないのだ。理解できなければ裁判に訴えても良いんだぞ!」
この喧嘩の後、彼はまかなくなった。顔を合わせるとソッポを向く。
テレビでもキレイキレイを訴えて除草剤のCMを流している。雑草は酸素をだし、人間や動物の出す炭酸ガスを吸ってくれている。中学校の理科でも習っていながらなぜ彼はそのことが理解できないであろうか?除草剤をまくことは一般的なことにまでなっている。一週間ほど前の毎日新聞には除草剤(ラウンドトップ)に発がん性があるという研究発表をし、メーカー側は反論していた。
文部科学省が進学・受験戦争をあおって肝心な(生きることを育む学問)を学校にさせないからである。(教育)とは生きることを教え育む学問である。教育を国に任せると民主主義(金権主義)と資本主義(大量生産・大量消費)の洗脳しかしない。教育の自由化をすべきである。退職した老人でも中学校に入学して数学や理科など学び、実社会での体験を基にもう一度学問を見直すことが出来る。生徒達に人生を教えることも出来る。相撲が好きな子供、絵を描くことの好きな子供、自然と遊ぶのが好きな子供など、個性を活かす道を作るべきである。部活の範囲内に留まらせず、本格的に進ませるべきである。それには一流大学出ただけで社会を知らない国家公務員に任せてはいけない。教科書も文部科学省検定ではなく自由に作らせるべきである。
会社を辞めて地元住民と触れ合う機会が多くなった。カラオケ教室、障害者の会、パソコン教室、大学の物理学公開講座に通い、次は英会話教室に通うことを考えている。これまでの仕事は肉体労働が多く女の世界に触れることは少なかったが、カラオケ教室、障害者の会に通って女達(七十歳以上)と接触し始めると男の世界との違いがわかってきた。
性的な仕組みの違いから女は絶えず男からのセクハラやレイプを警戒する。それはじゅうぶんに理解できる。性関係の噂にすごく敏感であり、特に年取った女はここでは書けないような露骨な言葉を使う。それは男だって同じだから非難する気はない。男の気を引こうとするのかリップ・サービスのつもりなのかわからないが、誘惑する言葉を使いながら男が接触しようとするとすると手の平を返す。ある種の女にこのタイプがいるがこれは理解できないし、男の世界にはいない。
こんな猫がいる。他の家で飼われている猫に散歩中に出会ったりすることがある。手をのばして撫でてやろうとすると離れていくが、立ち止まってわたしを見ている。わたしが寄って手を伸ばすと離れていくが、また立ち止まったわたしを見ている。ニャーと鳴いて人恋しい顔をしている。手を伸ばして触ると逃げるか、噛み付いてくる。
人間の女にこのタイプがいる。カラオケ・スナックで顔見知りの女が出来た。わたしのそばに寄ってきて、今度いっしょにお酒を飲みたいわね、と言った。わたしの家が広いといって場所を教えると車でそばまで来て探したが、ブロック塀が高すぎて家が見えなかった、とケイタイに電話してjきた。どこかでいっしょに酒を飲もうとメールをすると、嬉しい!と返信してきた。どこで何時ごろ会おうか?と訊くと、仕事のシフトの関係で時間をとるのがむずかしい、と返信してきた。何時ごろに時間がとれるか?訊ねると、わからない、と返信するのでどんなシフトのシステムか訊ねると、いつまでも返信をしない。どうしたのか?と訊くと、無理です、またスナックに行きます、と応えてきた。返信までの時間が十分もあったので誰かに相談していたのかもしれないが、わたしは腹を立て、接触を絶った。
会社の上司とドライブをして、車の中で体を触られたりキスをされたりしたので裁判に訴えた。加害者は学校の校長だったが解雇された。そんな記事はマスコミによく出るがわたしに言わせれば上記の猫と同じである。こう書くとセクハラだと言う女もいるであろうがわたしは言いたい。客観的にみれば自分が誘惑しておいて接近してくれば問題視することに気づかないのか?と思う。昔、(誘惑されて捨てられて)という外国映画があったが男にとっては受難であるし、裁判官はなぜそれを指摘しないのであろうか?男女関係とは、体を触って良い?キスをして良い?とわざわざ了解を取り付けて進めなければならないことののか?一対一でドライブに行ったこと自体がすでにそれらの行為を覚悟してると判断されても仕方がないのではないか?
カラオケ教室でわたしは会長に押されて仕方なく了解した。その日は公民館への書類提出のため印鑑が必要であった。事前に女の会長はケイタイにそのことを連絡すれば良いものを電話しにくいと言って、わたしをカラオケ教室に紹介した女(70歳)に頼んだが彼女はわたしとの男女関係を噂される(そんな関係はないし彼女にそんな魅力もなかった)と考えてわたしに連絡しなかった。そんなことを知らないわたしはカラオケ教室に顔を出し、印鑑が必要なことを告げられ、家に取りに帰った。
気が利きすぎて間が抜けてる、とはあんたのことだな!
とその女を叱ったが反省の色はなく、それに似たようなことが二度も続いたので脱会することにした。
この町は閉鎖的な町だとわかっているが、これでも男女共同参画社会を目指そう!と訴えている。