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鳥羽一郎の歌う(男宿)をユウチュウブで聴き、いつも涙を流している。感情を抑えた歌い方もさることながら、淡々としたメロディと歌詞が素晴らしく、驚くべき素晴らしさである。なぜこんなに感動するのか考えるとしだいにわかってきた。
まず歌詞の内容がふつうの演歌とはちがう。わたしがこの女が好きだ、愛した、などはいくらでもあるし一般的であるが、この歌詞は、俺から逃げてあの男を愛せ、幸福になれ、と歌っている。自分の欲望を捨てきっている。歌詞の一行一行が散文的ではなく、飛躍し、凝縮されている。この作詞家は女性だが、女の立場でこんな詩が思いつくというのが凄いし、才能がある。その感性にわたしは惚れこんだ。
戦後に産まれわたしは三度の食事を食べられなかったことはない。戦争で数百万人が死んだ犠牲者の上で旨い飯を食い、高度成長期の波に乗って飲む、打つ、買う、の快楽を貪ってきた。欲望を満足させるのが資本主義であり、個人主義(私)の世界を謳歌してきた。
日本文学において、明治時代以前には(私)という言葉自体がないし、(わたし)という表現もない。世界的にも珍しい世界である。夏目漱石の憂鬱な表情を思い出す。手首を顎にのせ首を傾けた表情は資本主義を臓器移植された憂鬱さである。明治以前にそんな表情の人物画はないが、その時代から、原発で世界が滅亡するかもしれない時代になってしまった。
(男宿)を聴いて感動するのは、もうそろそろ(私)を捨て、(私)のいない世界があっても良いのではないか、ということである。若い日人は個人主義の欲望を満足させ、それがどんなものであるか経験することも大事であるが、60歳を過ぎたら自分以外のことにもエネルギーを向けるべきではないか。(私)も含めてあまりにも自己中心的な老人が多すぎる。
崖から落ちた、試験に落ちた、などと言うが、実は吸い寄せられた、ということである。重力の法則から言えば(落ちた)であるが、引力の法則から言えば(吸い寄せられた)であり、どちらも同じ現象である。恋に落ちた、は実は、異性に吸い寄せられた、なのである。試験に落ちたは吸い寄せられたことでもある。友達を衝突(喧嘩)したは、実は互いの力に引き付けられ合った、結果である。憎らしいと言うのも相手に引き付けられていることである。愛しい、可愛らしいも同じである。線路に飛び込みそうになった、は実は、線路に引き付けられそうになったである。これは前回のブログにも書いていて、ここで初めてわたしはその出来事が物理化学的に理解できました。
知人から聞いた話にこんなことがあります。山の中でマムシとカエルが出会いました。しばらく睨みあっていましたが、マムシがカエルに飛びついて食べたのではなく、カエルが引き寄せられて自分からマムシの口の中に飛び込んでいった、というのです。その物理化学的現象はよくわかります。吸い込まれることは飛び込むことと同じ現象です。
言語ではなく物理化学的に分析すると、いかに事件や出来事を誤解していたかがよくわかります。
自動車組み立て工場で三交替の勤務をしたことがあります。24時間を8時間ずつ割り振りし、早朝勤務、昼勤務、夜勤とわけ、ラインをフル稼働させるわけです。労働者は一週間ごとにその三つの勤務時間を交替していくのです。朝5時から13時まで働いたとすれば次の週は13時から21時まで働き、次の週は21時から朝5時までというように変わるのです。初めのうちは体が慣れなくて、夜勤の時は眠くて倒れそうになったり、眠気で組み立て作業が遅れたりしました。今もこの勤務形態は続いていますが、世にも恐るべき世界を経験させられました。夜勤だからといってラインのスピードが遅くなったりすることは無く、まさにチャップリンの(モダン・タイムス)の世界ですが、こんな変則勤務形態で体は慣れていったのです。夜勤明けは二日半休めるので儲かったような気になりました。変則でありながらそこには周期が生まれ、リズムが出来ていくのです。
今、わたしの心臓は不整脈がよく出ています。夕食を食べ終え、入浴した後や酒を呑んだ時に出ます。脈が飛んだり、脈拍が一分間に90?100回になってる時があります。気分が不安定な時にそうなっていることがわかります。不安になったり気持ち悪くなったりしますが、心臓にとって不規則なポンピングは心不全を招きやすいのです。でも交替勤務でもリズムが生まれるように不整脈も周期を持ちリズムをつくっていると考えます、心臓にとっては良いことではないのですが。
周期で考えついたことは3という数字です。一分は60秒、一時間は60分、一日は24時間、一ヶ月は30日、一年は365日、音速は一秒で360メートル、角度は30度、60度、90度、180度というように3の倍数なのです。ここに数字と現象の不思議な関わりを感じます。(関わり)は関数とも言えます。
株の世界は魑魅魍魎が住むと言われるほど予測不可能なのですが、それでもチャートをみれば一定の周期が出ていて、それを目安に投資家は売買するのです。でもそれが当たる確率は50パーセントもありません。ということは単なる目安にしかならないということです。
キレイという言葉は漢字では(奇麗)である。(奇)とは珍しいとか希少という意味である。資本主義の骨格は大量生産(規格品)であるから資本主義の世界では従来の美は減少し、美そのものを失っていく。先日、絵画教室に三回ほど通ってみたが、やめた。小説のテーマを絵にしてみたいという狙いがあったが、教室の場で不信感を抱いたからだ。海岸の風景を描いている生徒が、自分で撮った写真を見ながら筆を運んでいたのである。もう一人はアニメ画の写真を見ながら描いていた。講師は黙認していた。冬だから海岸に行けば寒くて大変なことはわかるが、現場に行けば鳥が現われたり、舟が現われたり、波頭が風に飛ばされたり、思いがけない現実に出会うはずである。意外性の中に美は隠れている。それがわからないのかわかっててやってるのか知らないが、既製品の模写で美が描けるはずは無い。
キレイキレイの世の中で美容整形が流行し、総理大臣までが青年のような顔をして出てくるが、そのうち美容整形の(美)は美でなくなるのである。世の中の本質を見失った者に政治が出来るはずはないし、せいぜい票を利益・利権・金で買うことくらいしか出来はしない。これを人人は民主主義と呼んで、信仰しているのである。今の美の感覚も単なる信仰の域にしかすぎない。
経済支援、復興支援、難民支援とメディアは当局の言うことをそのまま流しているが、考え直してもらいたい。紛争が起こった国でそのような名目を使って入り込んだ場合、支援する本国人を守るために軍事出動をすることになり、このやり方でアメリカは世界の国国にグローバリニズムを広げていった。世界の平和のために侵略するのである。十字軍の時代に右手にピストル、左手に聖書を持って、侵略したのと同じ構図である。当局や権威者は言語の魔術師であり、それを精査もせずに流すことでマスメディアは悲惨な状況をつくったことがある。日本が惨敗した太平洋戦争をはじめ、検証していけば限りない事実がある。先日、NHKのニュースを観ていると、冒頭に安倍首相の顔を出し、クローズアップしたり素早く角度を変えたりして、強い効果を産もうとしている意図がみえた。NHk会長が安倍総理の采配で地位を当てるのだから、ご機嫌取りだとすぐにわかったが、メディアはもっと慎重な番組づくりにもどるべきである。
わたしたちも新聞やテレビの使う言葉や表現に首を傾げる必要がある。
アメリカという国はどうしても理解できません。それに巻き込まれている日本、それ以外の国ぐにはアメリカの主張するグローバリニズムの正当性を信じているのでしょうか?アメリカのやりかたは単純化していうと、戦争をなくすために戦争をする、ということなのです。皆が銃を持たないから乱射事件が起こる、皆が銃を持てばそんな事件はなくなるのだ、という考え方に似ています。核による戦争の抑止力、あるいは広島・長崎に原爆を投下したから日米戦争が早く終わった、という論理もそうです。毒をもって毒を制す、の考えです。世界中に毒を撒き散らすということです。正当化するために詭弁を使い、詭弁だといえば、反抗する気か?それはテロ側だ!ということですし、それに異議を唱えない国ぐにが不思議です。
今回のイスラム国のテロ事件にしても、全世界のマスコミは非難していますが、支援と称してイランやイラクなど他国に上陸して戦争をするアメリカの行為は侵略ではないのでしょうか?テロとどんなちがいがあるのでしょうか?アメリカこそ侵略国家なのです。アメリカ大陸を侵略してインディアンを滅ぼし、国家をつくり、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、イスラム国戦争と戦争をしていない時代はないのです。永遠に戦争をしなければならない構造にアメリカ国家は出来上がってしまっているのです。集団自衛権を開始すれば日本もその侵略戦争に巻き込まれ、今回の後藤田さんが殺された事件はそのはしりなのです。イスラム国は日本がアメリカの侵略に加担する国だと見ています。
わたしの心臓を修繕?してくれた西洋医学にわたしは感謝していますが、心筋梗塞を起こしたのは西洋料理が原因だったと考えるとなにか変な気がします。原因がみずから招いた結果を修復した、とでも言いましょうか?
それはともかく、精神病理学とは不思議な学問であり、学問として通用し、誰もオカシナ学問と言わないところにまたオカシサがあります。まず病名がころころ変わり、それに対して何も発言しないところがオカシイのです。学会や企業、団体、肉体疾患などは呼称を変える時には必ず公表しますが、精神病理学学会はなに一つ言いません。分裂病という言葉は以前からありました。次は躁うつ病という言葉がメディアに出てたと思えば次は統合失調症、その次は認知症と変わり、多重人格という言葉もありました。症状は変わらないのにこれだけ呼称が変わり、メディアも説明しません。呼称が変わったということは前の定義づけや認定が間違ってたということでしょう?
わたしは意識や感情や思考はすべて物質の反応だと考えていますし、それを主張してる学者はいるし団体もあります。肉体疾患には内科、外科の仕分けがありますが、精神病理の分野には脳内科というのがありません。脳の中で分泌される物質が意識や感情、思考を決めているのだから、それは脳内科と呼称するべきです。ドーパミンなどは良い例です。
これは既得権がからんでいるのです。脳内科と呼ばれるようになればそれまで精神病理学という分野で生活していた学者、病院、関係者、関連団体が消えざるをえなくなります。生活権なのです。
既得権だけで生活してる人、団体はたくさんあります。それにきちんと目を向けて,必要か必要でないか考えるべきです。脳内科に方向変換すべきです。薬漬けにされて毎日30錠もの薬を飲まされている
患者もいて、副作用で時々倒れたりしています。わたしが病院側とそのことについて話し合おうとしても応じません。その患者は入院時はソウウツ病でしたが、最近は(両極性・・)という病名に変えられたと言っていました。
イスラム国の人質殺害事件、その第一幕が降りた。勢力を広げるために第二幕、第三幕とひかえているであろう。十字軍の時代にキリスト教徒がどんな酷いことをしたか報道するマスコミはない。右手に拳銃、左手に聖書を握ってイスラム教徒を虐殺していったのだ。相手の残酷さばかりを煽っても根源に目を向けなければ子供の騒ぎと同じではないか?グローバリニズム(民主ファシズム)に寄った報道ばかりしていては同じことを繰り返すだけではないか?人道的支援と聞こえの良いことをいっているが、その国と関わりを持って石油を確保することが狙いではないか?民主ファシズムはいつもきれいな言葉を使って侵略し、資源を搾取していく。残るのは搾取されて貧しくなった民衆である。イスラム国はそれを知り、テロリストたちに訴え、彼らは共感している。それが彼らを駆り立てる原動力である。
いつの時代でもどの国でも戦争はなくならない。地面に凸凹があり社会に格差・落差がある限り、高い所にあるものは低い所に落ちる。物理現象である。戦争は火山の噴火や地震と同じ自然現象でもある。戦争は絶対になくならない、という考えから外交、国との付き合いをしなければならない。人間の感情、愛憎なども天気の変化と同じ自然現象である。
なにも驚くことはないのだ。殺人も同様である。
会社を辞め、趣味や散歩で一日を終える生活をしています。ここ何ヶ月も電車に乗ったことがなく、この町から外に出ていません。株式投資で儲けたら、東京に行って青春の跡地を訪ねてみたい、とか、キャンピングカーを買って九州を回ってみたい、友達を訪ねてみたい、などと空想するばかりで、儲からないのでけっきょくはどこにも行けないのです。
近所の人と話したり、障害者のカラオケ会に行ったり、公民館のカラオケ会に行ったり、カラオケ・スナックに行ったりしてると不思議な現象に出会います。狭い町ですから、噂がグルグルと人の口から口を回っているのです。わたしのことも回ってるのでしょうが、男と女の関係、金のこと、スキャンダルとだいたいきまっていますが、こんなことまで噂になってるのか?と知ってしまうと恐ろしい気がします。特に女の人の場合、どこのどの女がどの男と何回セックスをし、何回イッタとか、どの男や女が相手を求めているか、そんな噂が回り、その中に入ってしまうと、大変なことになります。ある女の人の場合、夫と死別してアパートに住んでいるのですが、噂が回り、知らない男が、あなたをいつも見かけて気になっていました、などと、じつは男関係の情報を知ってて訪れてるわけですが、話しかけて来るそうです。それが一人ならともかく何人も声をかけてくるのです。その女性は年老いているのでその頻度は少ないのですが、本人が言うには、共同便所とまで噂されているそうです。
こんな世界では噂だけで事件が起こりそうな気がします。次の小説はこんなテーマで書いてみたいと思います。
年が明けてのこの事件には驚いたというより、じつはわたしの狂気が正常ではなかったのか?と、おかしな正当化と心理的混乱を招いています。女子大生が老婆をオノで殺し、逮捕される前に、ついにやった!うれしい!とネットに書き込みをし、警察では(人を殺してみたかった)と白状しているのです。昨年も少女が(人を殺してみたかった)と白状し、殺しています。男ならまだしも女が加害者だということがわたしの混乱に拍車をかけています。こんな事件を想像できる作家がいたでしょうか?想像できたでしょうか?
まさに信じられない事件ですけど事実であり、まさに、事実は小説より奇なり、です。
わたしは自分が人からいつも言われるように変わり者であり、オカシイ男ですが、普通に生活して常識人だと見られていた女性がこんな事件を起こして、ついにやった!などと書き込むなんて?信じられない!これは氷山の一角であり、予備軍が控えているとみるべきです。わたしは若い頃、まさに人を殺してみたい、と思い、殺してる時の快感を夢想することがありました。自分は狂っていると思っていましたが、常識人のほうが狂っていたなんて?こうなると、もしかするとわたしは正常なのではないか?と考えたりします。(われらの狂気を生き延びる道を教えたまえ)という大江健三郎の小説ですが、四十年前によくあんなタイトルを思いつき、小説を書いたな、と感心します。彼は狂いもせずまだ生きています。仰々しいタイトルのわりには中味はたいしたことのない作品ですが、ノーベル賞をもらっただけの才能はあります。
狂わないためには狂ってれば良いし、狂った者が狂えば正常になるかもしれません。