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三年前の夏、わたしはバイパス手術を終え、病室のベットの中にいた。主治医が回診に来た。胸の縫合跡の痛みはなく、順調に回復していたが不整脈は消えなかった。
わたしは尋ねた。先生、退院したら、散歩は出来ますか?サイクルングは出来ますか?と。主治医は笑顔で、出来ますよ、と答えわたしはすごく嬉しかった。素潜りが好きなんですが出来ますか?と否定を恐れながら聞いた。彼は少し考え、今年は無理でしょうけど来年は出来ますよ、と言い、わたしは天にも昇る嬉しさを覚えた。涙さえ出そうであった。
今年はお盆前、その大潮の日が曇り空だったので、素潜りには行かなかった。昨年もその前には行った。サザエを6個、タコを二匹、魚を三匹捕った。お盆過ぎにはクラゲが出るし、太陽の強い日でないと海底は見えないし、大潮の日でないと岸から離れた海にはいけない。
東京での20年間の生活を終えて帰省した日だった。ワゴン車に生活用品を満載していたが、両親のいる家には行かず、まず海に行った。
大学受験に失敗した頃であった。自律神経失調症、ドモリ、両親の不和、断食に失敗、恋人もおらず、人生の方向感の喪失など最悪の時期であった。海は3キロメートルも先にあったので自転車をこいで行った。海の上に浮かんで漂い、波のリズムに心も体も休めた。人間世界を忘れた、忘れさせてくれたのは海であった。水中眼鏡を買い、シュノーケル、ヤスを買って、サザエを採り魚を突くことを覚えた。海水が強い陽光を吸い込んでいた。海底には砂地、岩が明るく照らし出されていた。波の形が縁取られ、映し出されてきらめき、波紋を揺らめかせ、はるか遠くまで見渡せた。物音一つしない天国であった。少し先に鯛の群れが見えたが彼らはすぐに消えるから眺めるだけであった。人の体ほどの岩の陰に何かを発見した。親指ほどで紫色の貝が集められていた。すべて空の貝であった。タコの巣?だった。
息を止め、両手で海水をかいで潜った。入り口を平らで丸い石が閉ざしていた。不自然さが作為を感じさせた。タコは賢い動物であったが、警戒してドアを立てることが見破られることだとは考えが回らなかったのだ。穴の中に指を入れると、やはり柔らかいものに触れた。思い切り指を突っ込み、タコを掴んで引っ張り出そうとしたが、岩に張り付いて離れない。息が苦しくなり、海面に戻って息を吸い、次の攻撃に備えた。首にかけていたヤスを外し、手に握って構え、潜った。穴を数度、突いた。黒い墨があがった。タコを突いたのだ。手を穴に入れ、張り付いていたタコを引き離した。片腕の半分もあるタコが姿を現し、八本の脚を腕に絡みつかせたが、力を弱めていった。帰宅すると、軽く湯通しして、刺身にして食べた。
あの夏の日が来年も来るであろう。
心の隅で祈っている。
自宅前の川辺に立っていた。幅十メートルほどの川は岸辺が干上がり、明るい陽が射していた。黄色っぽい縞模様の野良猫が十匹ほども寝そべり、あるいは死んだように横たわっているのが見えた。捨てられたのであろう。いずれも毛が濡れていて、体に波を立たせていた。珍しい光景だった。写真に撮ろうと考え、そばの自宅にカメラを取りに戻ることを考えた。
大きな工場の中であった。床は厚い鉄板がひかれていて、滑り止めの凹凸が入っていた。わたしは足に安全靴を履いている感触を覚えた。機械が無機的な表情でわたしと向き合っていて、これから彼らといっしょに仕事をしなければならないのだった。無機物の構成された世界は経験のない緊張をすでに準備していた。工場の建物は無限と言えるほど並び、鉄の壁材が波模様を打ち、抽象画のような珍しさを覚えさせた。
海岸の道を歩いていた。ここがどこなのか?地名さえわからない。経験したことのない不安であった。暖かい良い日和の日であった。自分がなぜそこにいるのかわからない。テトラポットの山に登って遊んでいる子供たちが見えた。小学校の低学年ほどの歳の男だった。
(ぼくたちに聞きたいけど、ここなんと言う所?)
声を投げてみたけど誰も応えないし、顔も向けない。一人だけ怪訝な顔で笑いを向けた。
変なおじさんだな、という顔であった。
わたしは歩き始めた。道路に顔を向け、標識の地名を探したがそんなものはなく、車は普通どおりに走っている。ここがどこだかわからないのだから、自分がどこに向かって歩いているかもわからない。
駅のホームに立っていた。わずかな人の姿があったが、ホームには立て札や掲示板がなく、その駅名も前後の駅名もわからなかった。ここがどこなのか?そんなことを訊くのは自分が不審者にみられることがわかっていたので口を閉ざしていた。
電車が入って来た。わたしは習慣的に乗り込んだ。
これは一時間前にみた夢の再現です。
わたしは無農薬野菜を30年間作ってきましたが、無農薬では作れなくなる日が来ると予想してします。ジャガイモ、ナス、ニガウリ、キュウリ、玉ねぎなどは虫が付きませんが、それ以外は農薬が必要なのです。ほとんどの農家は低農薬と言って使用しています。
無農薬のわたしの畑では大根や高菜、小松菜などは芽を出し、伸びていますが、それらの半分の葉は虫に食われています。そのうち雑草に負けて消えてしまうでしょう。ニンジン、ほうれん草、ごぼう、インゲン豆などもまきましたが芽を出した段階で虫に食われ、全滅です。それらは4、5年間までは芽を出して立派に成長していたのです。除草剤や農薬などが逆に害虫を増やし、だからまた農薬を使うという悪循環を繰り返されているのです。農薬が消費者の体内に毎日入り、蓄積され、体のシステムやDNAを変化させていきます。体調を壊したりガンになったり悪いほうに変化させるのです。
がん細胞はふつの細胞が変異したものです。ですから免疫細胞はそれが生命体の敵であることがわからず攻撃しないのです。がん細胞によって体の組織が破壊されていくわけですが、なぜがん細胞は普通の細胞から変異しなければならないのでしょうか?ふつう細胞であっても十分生存出来たはずなのに?その疑問が解ければガンを治すことができますよね。犯罪者になる原因を突き止め、出来上がらないようにすることが可能なように。
資本主義の利便性と害に犯された現代人は善悪がわからなくなっている。近所の家の話ですけど、そこの主婦は草むしりが嫌いで除草剤をいつも撒いています。主人が、うちの水は井戸水だからしみこんだら困るじゃないか!と言っても言うことを聞きません。その家の傍を通ると、雑草がよく立ち枯れになっています。無残な姿です。主人がそれを言うと、わたしは安全な水を買ってきてるからだいじょうぶ!と答えるそうです。
前回のブログで静電誘導について書いていますが、この現象、原理、法則は自然現象や人間、社会に敷衍できるのです。格言やことわざ、警句は全体をとらえて一言で言い表わしているので、哲学と言えるものがあり、このタイトルも哲学です。静電誘導とは物体を擦ると、一端に+の電気が発生し、端にそれと同じエネルギーの?が発生するというかなり知られた現象です。
わたしがバイクに乗って集金業務をしていた頃の体験ですが、冬の寒い時など6、7時間も走り回ると体が冷え切ってガチガチになります。帰宅して暖かい風呂に入った時の気持よさは経験した人でないとわからないし、冷暖房の入った部屋で生活してる人にはその心地よさはわりません。体が凍えきっていた時には上昇する体温と心地よさが準備されていたのです。凍える度合いが高ければ高いほど上昇する体温と心地よさは高く、それは静電誘導の原理と同じです。(富裕、貧乏)(愛情、憎しみ)(成功、失敗)(健康、病苦)(戦争、平和)などすべての現象にこの格言は適用できます。
同時にそれら対立してる現象もエネルギーという領域においては等価なのです。鍵と鍵穴の関係のように反転させてみると実は同じ形であり性質なのです。だから一方が存在していながら、他方がなくなるということはありません。両立するものなのです。これは(ゼロ・サム世界)の考え方と同じです。
一時、不整脈が出て不安になったが、それが治まって元気を取り戻した。秋晴れのさわやかな日には山道を歩き、家の畑をスコップで耕す。ドクダミやヤブガラシの根を取る。石灰、鶏糞を撒く。宗像の牧場に車で行って、牛糞を取ってくる。畑にまいて、ジャガイモを植える準備をする。汗まみれになるが心地良い。
シャワーを浴びると、酒を二口飲む。演歌を聴きながら歌う。細川たかしの(北岳)が来月の課題曲(カラオケ教室の)だが、すごく良い歌で自分に合っている。もう歌えるようになったので気分が良く、散歩しながら口ずさめる。細川さんは円熟味が出て良い歌手になったのがわかる。以前は高い声を自慢してた節があるが今はない。自分が歌の世界を持っていることは人生を楽しくしてくれる。
午後9時になるともう寝る時間である。
どんな人生、生き方をしていようとエネルギーの好循環が幸福感を産むのがわかる。
草刈り、野菜作り、山道の散歩など、そんな生活をしていると自然とうものがよくわかる。新聞やテレビ(近頃はほとんど観ない)を見ると、安保法案の強行採決、ペルー人による6人の殺傷、警察官の集団強姦などいつも賑やかで静まることはない。自然界は一見、穏やかに見えるがその実、すさまじい戦いを繰り返している。雑草などは切れば切るほど元気を出して伸びていくし、雑草どうしの覇権争いも獣や人間以上である。百坪ほどの我が畑の覇権者はヤブガラシと言うツル草である。根は手の指ほどの太さであるが地中を張りめぐり、広がっていく。何本も芽を出し、畝一面を覆いつくし、トマトやキュウリ、ナス、木などがあれば這い登り、巻きついて絶やしてしまい、自分の肥料にしてしまう。まさに(藪を枯らす)のである。畑を耕し、根をとっても決して絶えない。人間の保護を受けている野菜は抵抗力を失って、雑草にやられっぱなしであるが、美味しさを出して人間の保護を受け、いつまでも子孫を残してもらえると言うことを知っている。被占領状態にある日本人と同じく依存することで生きている。独立心が旺盛な雑草と依存症の野菜、どちらにとってもそれが生きる知恵なのである。そこに善悪はない、いや自分たち自然を破壊する者が悪なのである。自然破壊する人間が増えているからそれを阻止するためには人間破壊しかない。ビンに入りすぎた水が地面にこぼれ落ちるように戦争、内乱、自然災害、殺人、病死、寿命などで人口は調節されているのである。
自分が書いたブログを見渡してみると、430件も投稿していることがわかった。よく書いたな、と思うし読んだ者に言わせるとよくそんなに書けるな!と驚いていた。だが、私の人生、その秘密基地はこの程度の件数では全容を現すことが出来ない。1000件になっても全容には届かない。開かずの門の中に封印しているものも数件あり、死後に開かれることもないであろう。それほど中味の濃い複雑な人生であり、人間である。昔の仕事仲間が私に向かって、ヘンタイチョウ!と呼んだことがあった。編隊長、だと直感したのだが訊いてみると、変態長、なのであった。人生が顔に凝縮されていたのであろう。昔はよく変態みたいだと言われたものだったが、近頃ではどうしたわけか、女から可愛いと言われることもあって驚いてしまう。
変態、は死語になりつつあるが、変態長と呼ばれたからには私が守っていきたい。
自分のことを書くのは気安いが、関係者の場合は気を使っている。特定できないようにしているし、小説の登場人物に変換している。秘密基地の穴掘り作業をしているような楽しさである。書いているうちに意外な発見もあるし、自己確認そして思想に近づいていくし、1000件を超えると遺稿にもなるであろう。最後はどんな文章で終わるか、先が楽しみである。
親戚から頼まれて、空き地のセイダカアダチソウを刈った。三百坪の土地を三メートルにも伸びたセイダカが埋め尽くし、ジャングルになっていた。草刈機で刈り始めると、セイダカは倒れ、次のセイダカを刈る邪魔をした。ツルが絡みつき、払おうにも払えないから、そこは剪定鋏で切り、また刈り始める。汗まみれになり、三十分も続けると、座り込んだ。大きく呼吸して、何度も酸素を吸い込んだ。やはり心筋が二割死んでいるので以前のような体調ではないことがわかった。止めようかとも考えたが、やります、と言った以上、放棄するのは厭だった。結局、四日間かかり(半日の日もあったが)、ジャングルとの戦いが終わった。
三、四日、家でぐったりしていた。不整脈が出ていた。トン、トン、・・・、これが繰り返される。(脈跳び)と言われ健康な人でも出るが、脈が一分間に60以下になれば要注意だとネットに書いてあった。以前にも度々不整脈は出ていたが今回は過労があったので神経質になった。
死の覚悟は出来ていたが、心臓はなぜ鼓動を打つか?に興味がわいた。心臓には鼓動を指示する箇所があり、電気信号を送っている。体の化学物質であるイオンが電気を作り、信号になる。要するに化学反応が指示を出しているのだ。胃や腸もその法則に従っている。ペースメーカーという機械は不整脈を起こし危険な状態になった人に埋め込んで、規則正しく脈を打たせるのである。
その化学反応はなぜ起こるのか?ということになれば(分からない)(神の仕業かもしれない)ということになる。宇宙の動きの一部ではないか?とわたしは考えた。月経、初潮、という言葉がるように女の生理は月の動きと関係している。初潮の発生時期はその女の人それぞれによってことなるが、28日間という期間は月齢と同じである。
人間の体のさまざまな活動は宇宙の活動とリンクしている。心臓の鼓動もそうなのだ。その元締めがカミと呼ばれるものである。もし月に惑星が衝突して、月がなくなればどうなるのだろうか?女の生理は止まりあるいは狂って受胎しなくなるだろう。人類も動植物も消滅するであろう。
宇宙やその一つにすぎない地球への視点を持てば、わたしの命など微細なもの、で死ねば元素に戻って宇宙に還るだけである。そう考えると楽になった。
神とはすべての活動の基であり、原理であり、エネルギーなのだ。
エロ・ビデオを観て興奮するかどうかを十人ちかい女に訊いたことがあるが、八人近くは興奮しないと答えた。男は九人ちかくが興奮すると答えた。
この違いにわたしは興味を覚える。なかなか難しいテーマであるが、わたしの結論は以前のブログに書いた(下着ドロボウに女はいない)(動物にレイプやセクハラはない)などのテーマに尾を引く結論なのである。そこでは書き忘れていたがフェロモンが主因なのだ。メスはフェロモンを出してオスを誘導するのだ。鳥の中にはきれいな羽根を伸ばしてオスがメスを誘惑するが、性行為においてはオスがメスの上に乗る。
♂と♀の物理的合理的な関係である。♂が♀の上に乗るほうが結合しやすいと同時に寝た状態だと敵の攻撃を招きやすいという理由がある。
つまりベクトルなのである。男は能動的、女は受動的というベクトル(方向性)のちがいである。+と?のちがいのようにすべての万物にはベクトルがある。男は想像力が豊かで、常に発情している。これは多くの♀に精液をばら撒くように仕組まれているからだ。女は受動的に興奮するように仕組まれているのだ。だからエロ・ビデオを観てもすぐにはこ興奮しないし、体を触られて初めて興奮するように仕組まれている。視覚ではなく、触感によって興奮するのだ。
ピカソの絵(泣く女)を観ると、ショックを受ける。あまりに悲惨な顔に驚き、顔を背けたくなるが強烈な印象はいつまでも消えない。実は身近にこんな顔の女の人がいるので、よけいに強い印象を抱いてしまうのです。ピカソは数百点近い絵を描いていて、従来の手法だけでも十分すぎる評価を保つことが出来たのになぜそんな絵をあえて描いたのでしょうか?手法だけでも冒険的であり、失敗であれば失うものが多いのに。そこが彼のすごいところである。そんな悲惨な絵を自分の部屋に飾りたいなどと考える者は絵の評価額に重きを置く者以外はいないはずだ。
(泣く女)は美の観念を超えている。ショックと感動のみである。ヒットラーのファシズムがスペインを侵略し、フランコの傀儡政権をつくった内乱、その悲惨な戦争が(泣く女)に凝縮されている。破壊された顔の悲しみ、破壊された秩序・生活の嘆きなのだ。世界の絵画史の中であんな人物画は初めてであり、失敗作の評価を受ければピカソの評価を落としかねなかったのに彼はあえて描いた。
芸術(美)は秩序や形に依存するのではなく、現す感動(エネルギー)なのである。アルタミラの壁画(野牛)に見られるように美は生命の活動を現すことに始まった。部落、国家が出来ていくうちに政治や宗教権力の手中に入り、その秩序に枠をはめられていった。(泣く女)は政治権力による負のエネルギーを初めて描いた傑作なのだ。