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前回のブログで静電誘導について書いていますが、この現象、原理、法則は自然現象や人間、社会に敷衍できるのです。格言やことわざ、警句は全体をとらえて一言で言い表わしているので、哲学と言えるものがあり、このタイトルも哲学です。静電誘導とは物体を擦ると、一端に+の電気が発生し、端にそれと同じエネルギーの?が発生するというかなり知られた現象です。
わたしがバイクに乗って集金業務をしていた頃の体験ですが、冬の寒い時など6、7時間も走り回ると体が冷え切ってガチガチになります。帰宅して暖かい風呂に入った時の気持よさは経験した人でないとわからないし、冷暖房の入った部屋で生活してる人にはその心地よさはわりません。体が凍えきっていた時には上昇する体温と心地よさが準備されていたのです。凍える度合いが高ければ高いほど上昇する体温と心地よさは高く、それは静電誘導の原理と同じです。(富裕、貧乏)(愛情、憎しみ)(成功、失敗)(健康、病苦)(戦争、平和)などすべての現象にこの格言は適用できます。
同時にそれら対立してる現象もエネルギーという領域においては等価なのです。鍵と鍵穴の関係のように反転させてみると実は同じ形であり性質なのです。だから一方が存在していながら、他方がなくなるということはありません。両立するものなのです。これは(ゼロ・サム世界)の考え方と同じです。
一時、不整脈が出て不安になったが、それが治まって元気を取り戻した。秋晴れのさわやかな日には山道を歩き、家の畑をスコップで耕す。ドクダミやヤブガラシの根を取る。石灰、鶏糞を撒く。宗像の牧場に車で行って、牛糞を取ってくる。畑にまいて、ジャガイモを植える準備をする。汗まみれになるが心地良い。
シャワーを浴びると、酒を二口飲む。演歌を聴きながら歌う。細川たかしの(北岳)が来月の課題曲(カラオケ教室の)だが、すごく良い歌で自分に合っている。もう歌えるようになったので気分が良く、散歩しながら口ずさめる。細川さんは円熟味が出て良い歌手になったのがわかる。以前は高い声を自慢してた節があるが今はない。自分が歌の世界を持っていることは人生を楽しくしてくれる。
午後9時になるともう寝る時間である。
どんな人生、生き方をしていようとエネルギーの好循環が幸福感を産むのがわかる。
草刈り、野菜作り、山道の散歩など、そんな生活をしていると自然とうものがよくわかる。新聞やテレビ(近頃はほとんど観ない)を見ると、安保法案の強行採決、ペルー人による6人の殺傷、警察官の集団強姦などいつも賑やかで静まることはない。自然界は一見、穏やかに見えるがその実、すさまじい戦いを繰り返している。雑草などは切れば切るほど元気を出して伸びていくし、雑草どうしの覇権争いも獣や人間以上である。百坪ほどの我が畑の覇権者はヤブガラシと言うツル草である。根は手の指ほどの太さであるが地中を張りめぐり、広がっていく。何本も芽を出し、畝一面を覆いつくし、トマトやキュウリ、ナス、木などがあれば這い登り、巻きついて絶やしてしまい、自分の肥料にしてしまう。まさに(藪を枯らす)のである。畑を耕し、根をとっても決して絶えない。人間の保護を受けている野菜は抵抗力を失って、雑草にやられっぱなしであるが、美味しさを出して人間の保護を受け、いつまでも子孫を残してもらえると言うことを知っている。被占領状態にある日本人と同じく依存することで生きている。独立心が旺盛な雑草と依存症の野菜、どちらにとってもそれが生きる知恵なのである。そこに善悪はない、いや自分たち自然を破壊する者が悪なのである。自然破壊する人間が増えているからそれを阻止するためには人間破壊しかない。ビンに入りすぎた水が地面にこぼれ落ちるように戦争、内乱、自然災害、殺人、病死、寿命などで人口は調節されているのである。
自分が書いたブログを見渡してみると、430件も投稿していることがわかった。よく書いたな、と思うし読んだ者に言わせるとよくそんなに書けるな!と驚いていた。だが、私の人生、その秘密基地はこの程度の件数では全容を現すことが出来ない。1000件になっても全容には届かない。開かずの門の中に封印しているものも数件あり、死後に開かれることもないであろう。それほど中味の濃い複雑な人生であり、人間である。昔の仕事仲間が私に向かって、ヘンタイチョウ!と呼んだことがあった。編隊長、だと直感したのだが訊いてみると、変態長、なのであった。人生が顔に凝縮されていたのであろう。昔はよく変態みたいだと言われたものだったが、近頃ではどうしたわけか、女から可愛いと言われることもあって驚いてしまう。
変態、は死語になりつつあるが、変態長と呼ばれたからには私が守っていきたい。
自分のことを書くのは気安いが、関係者の場合は気を使っている。特定できないようにしているし、小説の登場人物に変換している。秘密基地の穴掘り作業をしているような楽しさである。書いているうちに意外な発見もあるし、自己確認そして思想に近づいていくし、1000件を超えると遺稿にもなるであろう。最後はどんな文章で終わるか、先が楽しみである。
親戚から頼まれて、空き地のセイダカアダチソウを刈った。三百坪の土地を三メートルにも伸びたセイダカが埋め尽くし、ジャングルになっていた。草刈機で刈り始めると、セイダカは倒れ、次のセイダカを刈る邪魔をした。ツルが絡みつき、払おうにも払えないから、そこは剪定鋏で切り、また刈り始める。汗まみれになり、三十分も続けると、座り込んだ。大きく呼吸して、何度も酸素を吸い込んだ。やはり心筋が二割死んでいるので以前のような体調ではないことがわかった。止めようかとも考えたが、やります、と言った以上、放棄するのは厭だった。結局、四日間かかり(半日の日もあったが)、ジャングルとの戦いが終わった。
三、四日、家でぐったりしていた。不整脈が出ていた。トン、トン、・・・、これが繰り返される。(脈跳び)と言われ健康な人でも出るが、脈が一分間に60以下になれば要注意だとネットに書いてあった。以前にも度々不整脈は出ていたが今回は過労があったので神経質になった。
死の覚悟は出来ていたが、心臓はなぜ鼓動を打つか?に興味がわいた。心臓には鼓動を指示する箇所があり、電気信号を送っている。体の化学物質であるイオンが電気を作り、信号になる。要するに化学反応が指示を出しているのだ。胃や腸もその法則に従っている。ペースメーカーという機械は不整脈を起こし危険な状態になった人に埋め込んで、規則正しく脈を打たせるのである。
その化学反応はなぜ起こるのか?ということになれば(分からない)(神の仕業かもしれない)ということになる。宇宙の動きの一部ではないか?とわたしは考えた。月経、初潮、という言葉がるように女の生理は月の動きと関係している。初潮の発生時期はその女の人それぞれによってことなるが、28日間という期間は月齢と同じである。
人間の体のさまざまな活動は宇宙の活動とリンクしている。心臓の鼓動もそうなのだ。その元締めがカミと呼ばれるものである。もし月に惑星が衝突して、月がなくなればどうなるのだろうか?女の生理は止まりあるいは狂って受胎しなくなるだろう。人類も動植物も消滅するであろう。
宇宙やその一つにすぎない地球への視点を持てば、わたしの命など微細なもの、で死ねば元素に戻って宇宙に還るだけである。そう考えると楽になった。
神とはすべての活動の基であり、原理であり、エネルギーなのだ。
エロ・ビデオを観て興奮するかどうかを十人ちかい女に訊いたことがあるが、八人近くは興奮しないと答えた。男は九人ちかくが興奮すると答えた。
この違いにわたしは興味を覚える。なかなか難しいテーマであるが、わたしの結論は以前のブログに書いた(下着ドロボウに女はいない)(動物にレイプやセクハラはない)などのテーマに尾を引く結論なのである。そこでは書き忘れていたがフェロモンが主因なのだ。メスはフェロモンを出してオスを誘導するのだ。鳥の中にはきれいな羽根を伸ばしてオスがメスを誘惑するが、性行為においてはオスがメスの上に乗る。
♂と♀の物理的合理的な関係である。♂が♀の上に乗るほうが結合しやすいと同時に寝た状態だと敵の攻撃を招きやすいという理由がある。
つまりベクトルなのである。男は能動的、女は受動的というベクトル(方向性)のちがいである。+と?のちがいのようにすべての万物にはベクトルがある。男は想像力が豊かで、常に発情している。これは多くの♀に精液をばら撒くように仕組まれているからだ。女は受動的に興奮するように仕組まれているのだ。だからエロ・ビデオを観てもすぐにはこ興奮しないし、体を触られて初めて興奮するように仕組まれている。視覚ではなく、触感によって興奮するのだ。
ピカソの絵(泣く女)を観ると、ショックを受ける。あまりに悲惨な顔に驚き、顔を背けたくなるが強烈な印象はいつまでも消えない。実は身近にこんな顔の女の人がいるので、よけいに強い印象を抱いてしまうのです。ピカソは数百点近い絵を描いていて、従来の手法だけでも十分すぎる評価を保つことが出来たのになぜそんな絵をあえて描いたのでしょうか?手法だけでも冒険的であり、失敗であれば失うものが多いのに。そこが彼のすごいところである。そんな悲惨な絵を自分の部屋に飾りたいなどと考える者は絵の評価額に重きを置く者以外はいないはずだ。
(泣く女)は美の観念を超えている。ショックと感動のみである。ヒットラーのファシズムがスペインを侵略し、フランコの傀儡政権をつくった内乱、その悲惨な戦争が(泣く女)に凝縮されている。破壊された顔の悲しみ、破壊された秩序・生活の嘆きなのだ。世界の絵画史の中であんな人物画は初めてであり、失敗作の評価を受ければピカソの評価を落としかねなかったのに彼はあえて描いた。
芸術(美)は秩序や形に依存するのではなく、現す感動(エネルギー)なのである。アルタミラの壁画(野牛)に見られるように美は生命の活動を現すことに始まった。部落、国家が出来ていくうちに政治や宗教権力の手中に入り、その秩序に枠をはめられていった。(泣く女)は政治権力による負のエネルギーを初めて描いた傑作なのだ。
若い頃は女漁りに熱中していた,今もその気は残っているが。どうやって口説いて自分の女にしようかと考えるだけでも楽しかったし、ボロアパートの部屋に連れ込んでしまえばもうしめたものだった。女の手を握ったり乳房を触り始めると、ほとんどの女は(イヤよ!)と言い始め、私の手をどけようとしたり握って自由がきかないようにした。今でもその時の女の心理がよくわからない。現在でもそんな反応は多くあると思う。イヤであれば立ち上がって台所に行くとか部屋から出て行くとかすれば良いものをそうはしないで、(イヤよ!)を連発し続けるのだ。ところがイヤよと言われれば欲情が高まってしまうのである。電圧=抵抗力×電流の方程式があらわすように性欲は高まってしまうし、逆に、はい、どうぞ!とばかりに股を広げられるとこちらの性欲は弱まってしまう。ここが不思議な男女の反応であり、可逆反応であって、いやよいやよは好きのうちではないか?
想像するに(恥の文化)の名残りではないか?日本特有の文化として曳きづられているから、外国ではありえないのではないか?アメリカのエロ・ビデオが面白くないのは性行為が体操みたいに単純化されすぎてる上に、女が(Oh,no!)と言うのに無理に迫ればすぐに人権問題になって訴えられるから、そんな言動はいいっさいとれないからである。
ここに日本文化の特異性がわかるし、外国人には理解できないであろう。10月から福岡教育大学の公開講座に通うことになる。日本文化を留学生たちと議論することになるのでこのテーマを持ち出そうかと考えています。楽しみです。
こんなタイトルを考え付いたのは私が人々に否定される資質を持っているからです。突拍子もないことを言う、目上とか先輩、上司などに対して敬意を払わず言いたい放題である、非常識なことも平気で言う、スケベである、ドモリである、記憶力が悪い、気転がきかない、などなど欠点ばかりの人間です。そのせいでしょう、高校時代から(人々が否定するものに価値を見出す)と言う自己正当化の考えを自分で持ち始め、今ではレアなどと自称しています。
ところが私はこのタイトルに自信がついてきたのです。このホームページの私のブログで人気の高いのは4年間で3?4万人の閲覧者数があります。一日に20?30人の人が毎日読んでいる計算になります。レアの書いたものだから人気などとはほど遠いと考えていましたが、近頃は(希少)であることに自信がついてきました。書きたいことを書いてるけど、これが中国だったらお前は銃殺だぞ!と忠告してくれた友人がいましたが、殺されるほどの価値があればたいしたものだ、と言い返してやりたい。老い先も短いのだから殺されれば死ぬ手間も省けるわけです。
なぜ私達は広島・原爆ドームや長崎の軍艦島、シリアの内乱被災地や東北大震災の写真に惹かれるのであろうか?私達ではなく、私だけかもしれないが、原爆ドームや軍艦島などは世界遺産にまでなっている。ナチスの収容所、ガス室などもそうである。(負)の美ではないかとわたしは推測する。秩序の観念から言えば触れたくない醜いものとして扱われるものを整形美術した顔以上の魅力を持っている。
結論を言えば(美)とは秩序に基づいているのではなく、エネルギーあるいはエネルギーの痕跡なのである。エネルギーを感じるから感動するのである。否定されるべき(負)の痕跡まで遺産となるのである。(美)の概念は変わらなければならない。秩序正しいとか整っているとかではなく、いかにエネルギーを発し、観る者に感動を与えるかということが基準になるべきである。
顔形ではなく、表情なのである。表情の現す内部からのエネルギーなのである。それが芸術、文化になりえるのである。今後、破壊された顔や体の傷跡、手術跡、生命の腐敗状態なども芸術になりえるだろう。美の価値基準は変わってくる。
エネルギーを傾けた私の小説がなぜ芸術にならないのであろうか?作家以上のエネルギーを傾けているのだからそれだけの感動が与えられても良いはずなのに。演じる筆力が欠けているのであろう。力を入れる部分が的外れになっているのかもしれないが、あと一ヶ月くらいで完成する(ガラパゴスの女)に賭けてみたい。応募はするが、外れ場合はこのHPに掲載するつもりです。