ブログ - 20240608のエントリ
人間の不幸は、不幸はいけないことだと考えていることから生じている。不幸でも良い!と考えられれば不幸はなくなるのである。警察に逮捕された重大犯罪者でも、平然としている者がいて、それが不幸だと認識するのは見ている者が不幸だと思うからにすぎない。当人の心内の反映なのである。それは現象学からも導かれるし、ほとんどの人は世間の価値基準に支配されているにすぎない。
かくいう自分の現状は、誰が見ても不幸であるし、自分がそれに支配されていると気づく余裕はないことが多い。だが、一歩振り向いて、冷静にみれば不幸でもないことに気づく。妻子が去って独りぼっち、国民年金と月に五万円ほどのアルバイトで食いつないでいる老男が幸福であってはならないのである。
が、最低限の金で生きている。生きていることはまちがいないのである。
(恐怖の報酬)という外国映画があったが、ポンコツ車を運転して、ただでもらうもみ殻やヌカを運ぶときはいつもその映画を思い出す。走行距離が十万キロを超えるとタイミングベルトが切れても保証はしません、とメーカーが言い、その車のハンドルを握って道路を走っているのである。タイミングベルトが切れて走行中に突然止まったらどうなるか?考えただけでも震えるのであるが、交換する金の五万円がないのである。(恐怖の報酬)はニトログリセリンを積んで砂漠を走る映画であったが、それに近い恐怖である。
だが、最近は、どうなってもいいや・・・、と言う考えが湧き、少し鈍感になって来た。そして、そのうち、車が道路の真ん中で立ち往生するかもしれないが・・・。
五万円の金が入って修理をしたとしても、今度はちがう悩みが生じるに違いない。堂々巡りに過ぎないのである。神よ、我に不幸を与えたまえ!