ブログ - 20210825のエントリ
遠く離れた老男と、長電話で話をしていると、コロナで騒いでいるときにオリンピックをするなんてわからないし、終わったと思ったらパラリンピックも開かれて、大雨の被害が収まらないうちに、障害者たちが汗水流して競争している、あるいはさせられている、としゃべり、おれにはこの時代をどんなふうに解釈していいのかまったくわからない、と、言葉を置いた。わたしは電話を置いて、その言葉が自分の気持とまったくおなじであることに気づいた。
その通りである。何という時代になったのか?歴史書を読み、生物学、物理化学、生命哲学などいろんな本を読んでも、なにも教えてくれず、コロナの侵攻に身を任せ、逃げる場所もなく一人ぼっちであることに気づくのである。逃げる場所があるとすれば人っ子ひとり住まない孤島であるかもしれない。これまでの歴史を振り返っても、天然痘、ペスト、インフルエンザなどの疫病禍はあったが必ずどこかに逃げ場所があって一時的に避難し、またもとの生活に戻れたのであるが、今回は逃げ場所がない、戻るところがないという不安がコロナという怪物以上に私達を苦しめるのである。
そして、なにも信じるものがない、その上、自分が丸裸にされたことに気づき始め、呆然とするのである。近代化によって物質的快楽、飽食、利便性など限りない享楽を得たが、それによって失った信仰、信頼、共生感、共同体などがもう戻ってもないことをコロナによって思い知らされたのである。
あるいはもしかするとコロナ事変は予告されたものであって、小説(予告された殺人の記録)のようにその記録の跡をたどっているのではあるまいか?その小説は実際に起った事件をジャーナリストであったガルシア・マルケスが綿密な取材をして書き上げた作品で、ノンフィクションノベルと呼ばれるものである。南米の熱気、興奮、苛立たしさ、風俗風習、血生臭さが混交したモザイク調の世界である。その前に、トルーマン・カポーティという米国作家が(冷血)というノンフィクションノベルを書いて、評判になっていた。
確かに、聖書の中の(ノアの洪水)や(ソドムとゴモラ)に見られるように2千年前から人類崩壊は絶えず予言されていたし、近年ではノストラダムスの予言もあったが、どれ一つとして決定的なものはなかったので、もしかするとコロナこそ決定的なものかもしれないと不安を募らせるのである。私達はそして時代が不安神経症になってしまったが、苦しみの先に光明は待っているのである。