ブログ - 20210530のエントリ
7月4日にワクチンの接種を受けることになったが、喜びと同時に妙な気持ちである。コロナが死に連れて行ってくれる可能性が減ったからであるし、74歳の自分がどんな死を迎えるのか?その心配が消えなかったからである。コロナにかかって死ねば、それは自然死であり、誰にも迷惑はかけないが、妻子のいない孤老が家の中で死んでいたら発見までには時間がかかり、白骨化しているかもしれない。警察や行政の関係者にはそれが仕事だとは言え、迷惑なことである。
こんな事を考えるのは、自分だけではないであろう。
コロナの変種株が現われて、感染力を強め、ワクチンも効果を薄めると新聞に載っていたが、こうなると、人類はコロナから解放されることはなく、いつまでも、そして、いついつまでもまるで恋人・伴侶のような存在になってしまいそうである。ニュースにコロナの出ない日はなく、全世界の人間がコロナのことを考えない日はない。食材を買いに出かけて帰宅し、さて食べようか、と考えてうっかり手洗いを忘れ、そこで、お釣りの紙幣からコロナがこっそり挨拶をしていることだって十分にあり得ることである。
コロナのそんな存在感は神にも近い、いやそれ以上に高い位置にあがってしまった。宗教の世界も哲学の世界の人々もワクチンに期待し、神や真理の追及をそっちのけにして忘れてしまったのである。これまでの権威は偽物に過ぎなかったのである。そのことを人類は知らねばならず、コロナというもっと強い権威が現れたことを知らねばならない。
キリスト教では、サタンはみ使い(神の使者)の一人、ということになっている。神の仲間であり、存在を否定してはあらず、対立物としての価値を与えている。禁断の木の実、のエピソードにも見られるように、人をかどわかして、試練を与えたのである。神が禁じているけど、この実はおいしいから食べてみなさい、といって誘惑したのである。美味しかったが、それまで死を知らなかった人間は(死)という永遠の罰を与えられたのである。
人類への反省を促す、(罰)の執行人、としてのコロナはこれからどう出るか?、見ものである。そして、人類の変わりようもどうなるか?まるでサスペンス小説を読むように期待がわく。