ブログ - 20210329のエントリ
一か月ほど前に、ある老女が、黄色いショウブが消えたね、と私に言い、そういえば、おれの家の前の川岸にも見えなくなった、とこたえた。それから、その川の隣の休耕田からも消えたことに気づいた。
一週間前に、その老女は、ツユクサも見なくなったね、と言い、自分の家の庭で五か所ほどで咲いていたのが、春になっても紫色の花が見えず、茎も葉もなくなっていることに気づいた。ツユクサはじゃまな草なのでいつも雑草として刈り取っていたが、消えてしまうとなつかしくなる。すごく丈夫な花で、水分の蓄えが十分なのであろう、刈り取ってコンクリートの上に置いていても一か月は枯れずに生きている。
ネットで、ツユクサが消えた、を検索すると出ていた。昨年の十月に見かけなくなって、不思議に思っていると、今年も出ない、というようなことが載っていた。
そのことがマスコミに出てはいないし、ほとんどの人は知らない。気候変動か環境汚染かわからないが、農家が田植えをしようとしているが、米が芽を出さない、となったらどういうことになるであろうか?恐ろしいことである。
身の回りではゲンゴロウやドジョウ、川トンボなど、姿を消していったものは数知れない。人はその順番を待っているに過ぎない。
今の世の動き、風潮はなにか気持ち悪く、洗脳のはてに怖い世界へ連れ去られてるように思える。五十年前の新左翼運動の時には、敵の姿が、アメリカ帝国主義・属国・日本政府としてはっきり見えていたが、今は反・差別、男女共同参画などと、さも抑圧された者達の復権をみせかけにして、言論統制を強め、少しでも反発する者がいればネット上でやり玉にあげ、封じ込めているのである。女だてらに、女のくせになどと言ったり書いたりすればそのうち罰せられるようになるにちがいない。誰かがチャチャ族をあやつり、火を付けさせている。
性に関して発言すること自体がこわくなり、結局黙り込んでしまう。性の領域が不可侵の世界になってしまうのではないか?
性とは生き延びる上においても大事なものであり、誰もが避けて通れない世界である。奥が深く、単純に割り切れない部分が多く、神秘と魔力に富み、誰しも命をうしなうことすらある。そこが踏み込んではいけないことになると、密室の閉じ込められ、何が起こるかわからなくなる。
たんに男女差別と言わずに、男と女の属性・個性をもういちど振り返って議論すべきである。
このタイトルは五十年ほど前、新左翼運動がさかんな頃に、吉本隆明氏が出した本で、有名になった。その頃はタイトルにひかれていろんな論評の場に顔を出したが、読み返してみると、タイトルにふさわしい内容は見当たらず、彼はコピーライターではなかったか?とささやかれてもいる。共同幻想論、という本も同じである。
自称小説家として、差別用語を思い出してみると、やはり生々しく、蔑視、差別、偏見を含んでいながら、人間の心象を表現し、時代の思想を背負っているといえる。差別する側の優越感、される側の心の痛みが手垢となってしみついている。わたしは、ドモリ、であるから、その言葉がささやかれたり活字に出ていたりすると、ビクッとすることがあった。今では、時々ドモリはじめると、故意にどもる真似をしたりして、個性の一部ともとらえられるようになったが、ここまで来るには人知れない難題や苦労があった。
差別用語かどうかで言語をとらえると(負)のイメージがからんでくるが、(美)という観点からとらえると、微妙である。ナチスの収容施設や拷問道具、ギロチン台などは加害者側が使ったものであるが、大切な遺物として残されており、その時代の証拠にもなっている。差別用語が差別用語として指定されれば使う者はいなくなり、死んで消えてしまう。小説の世界には差別用語はかなり残っているが、出版社は読者にその背景を理解してもらうする姿勢でのぞんでいる。
差別用語になって撤廃されることはある意味で、その時代の削除につうじることであり、慎重でなければならない。国民・読者に理解を求め、なぜ、そんな言葉が使われたのか?人間の心はなんなのか?など論議して、検証するべきである。マスコミが非難しているだけと言う理由であれば歴史の本当の姿を失ってしまうことになる。それに言論の自由をうしなうことであり、不適切用語の烙印を押されれば、権力にとって言論統制がしやすくなる。今の時代のセクハラ発言なども、権力側にうまく利用された言論統制なのである。