ブログ - 20210328のエントリ
マスコミに、差別の事例が取り上げられない日はない。読者の目をひき、視聴率を稼ぐためだけだと考えたくなるほど、微妙な部分に入り込み、いつまでもモグラ叩きで収拾がつかず、もっと大事なことがニュースから置き去りにされている。例えば、ツユクサや黄色い菖蒲が近隣から姿を消し、何故なのか?ということなど、身近な異変は見過ごされているのである。
それに大きな視点・観点を見失い、袋小路に入り込んで身動きが出来なくなり、いつのまにかコロナという恐るべき生物を人間社会が生み出し、いまだに右往左往していることである。
差別問題に関しては、差別とは何か?区別とは何か?を考え、区別すべきではないか?
身近な事例を考えると、まず、清掃人のことである。そこに男女の差別がからんでいるとは、誰も想像しないであろうが、実は存在しているのである。清掃人の募集をしても,女性の方を採用する。なぜなら、トイレの掃除があり、男は女子トイレを覗きたがる傾向があるが、女性にはほとんどないからである。
これは逆差別というより、区別として判断すべきである。
次にスポーツの分野。ほとんどすべてのスポーツは男女に分かれて競技をし、得点で順位が決まるのである。男女の差別、というのであればすべての競技を男女混合にすべきではないか?ここで体力的に女は男に劣っているから、などと発言すれば大問題になるから、このことに関わることは出来ず、タブーになってしまう。体力的に劣っていることを差別ではなく、区別と判断すれば男にハンディを与えて、公平に競技が出来るというものである。
女子選手の下腹部や胸を写真に撮って公開することはセクハラである、と言うことになりはじめている。男子選手の場合はまだ、そんなことはないが性的少数者が増えてくればこれもセクハラということになるであろう。
そろそろ、袋小路の世界から大局世界へ、方向変換すべきではないか?世の中からエネルギーが失われている。家の前に公園があって子供がうるさいから撤去させたり、保育園の子供の声がうるさいと、抗議をする老人たちのお粗末さを見せつけられるのは嫌になる。