ブログ - 20210306のエントリ
近頃、加齢とともに、下半身の興奮がさびしくなった。エロビデオは五十本ほど持っていて、部屋の中に散乱しているが、埃をかぶり始めたのもある。映像をかけて、観てみるが、あの頃ほど、興奮しなくなったものもある。それは下半身の元気がなくなったにしか過ぎない。逆に作り方がよく見えてくるようになり、自称作家として、画像の裏の世界が見えてくるし、小説を書く上においてすごく研究させられる。
エロだろうが(純)だろうが、それはジャンルの違いにしか過ぎない。下半身を興奮させるか心を興奮させるかの違いでしかなく、エロだから(悪)で純だから(善)ではない。以前は悪書追放の張り紙が駅のゴミ箱にしてあったが、最近は見かけない。
興奮させられるビデオは、監督が最初から作り方をよく考えているし、女優も男優も性行為をしながら、それを演じながら興奮しているのである。この作品は女優の下着にすごく凝ることによって効果を出す、この作品はなにげない女優の仕草、表情、言葉によって効果を出す、この作品は異常な場面を出すことによって効果を出す、など計算されていて、それはあらゆるジャンルの作品に共通することである。だから、素晴らしいエロビデオをつくれる監督は素晴らしい純作品をつくれるものである。
それにもう一つ考えることは、創作のすごさなのか?現実のすごさなのか?である。実の母と息子の性行為をビデオに撮ったものを持っている。そばに父親が病床に伏して寝ていて、父親の目を盗んで行為をするわけであるが、あまりにも母と息子の顔が似ているので、驚かされ、興奮してしまう。ただ、カメラは一台にみで固定されているので一つの角度からしか撮られていない。母親はやはりビデオに録られていることを意識して落ち着かない表情をしており、息子は強引に迫っていく。
すごく迫力があるが、創作をくわえて加工すればもっと素晴らしい作品になったとおもう。自分が書きかけていた(磁場)は書けなくなって、放棄した。もう一つの作品(贖い)の改稿のとりかかっている。ある程度の評価を得て、読んで泣いた女も三人はいる。これも体験したことであるが、体験と創作をうまく兼ね合わせていくことが求められている。
さて、今年はこれにかけようと思う。