ブログ - 20191031のエントリ
つまり、宗教とは理論や史実かどうか?など科学的に考える分野ではないということでした。男女の恋愛みたいに、好きになる時に、学歴や年収、顔の美醜などにとらわれず、ただ、好きになった、心地好いというフィーリングに左右されるということでした。たぶん、ほとんどの信者たちはキリストの行いや神の言葉に惚れて、入信すると思います。
私にも、キリストの像は思い浮かびます。汝の隣人を愛せ、右の頬を打たれたら左の頬を出せ、などわたしの本性とは真逆の人間性です。72歳になり、死を待つ状況になって、わたしは自分のほとんどを捨てています。だから、キリストにでもサタンにでも変身できる心境です。が、どうしても、身近にはなれず、それだから、キリストも神も寄って来ないようです。
信じればキリストや神は近づいて来るでしょうが、その溝を超えられないのです。いつか、キリストが夢の中に現れるようになれば、信者になれると思います。それは死ぬ時かもしれませんが、聖書を学びながら、その時を待っています。
前週の日曜日、教会に行ったとき、佐藤さんに話しかけた。
「佐藤さんは、神をどんな時から感じるようになりましたか?」
「それまでは感じたことはなかったのですが、大病を患った時からですね」
「神の姿が見えるのですか?」
「いや、声が聞こえてくるのです」
「ほう。どんな声がですか?」
「ここに書き留めています」
彼は手帳を開いて、見せました。
小さな字で毎日、びっしり書いてありました。
「わたしは教会の中では神を感じることがあるのですが、外に出ると、元の人間にもどってしまいます。女に目が向いたりします」
わたしは言いました。
彼は黙っていましたが、神の声が聞こえると言うのは、彼が聖書で学んだことが、木霊になって戻って来てるのじゃないか?とわたしは考えました。
それから、彼は演壇に立ち、説教をはじめました。
いつもの牧師が出張のため、不在で、古くからの信者が話をすることになっていたのでした。
彼は、迷える子羊、の話を始めました。ルカの福音書、15章に書いてあるたとえ話で有名な部分です。
(あなたがtのうち、百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ったときに、九十九匹を荒野に残し、失われたものを見つけるまで探しに行かない人がいるでしょうか)という文面です。
この内容は私の心に残るものでした。
まず、自分が洗礼をうけるようにすすめられながら、迷っている状態であったのです。
聖書を学び始めて、書いてある内容が事実なのか?進化論とくらべてどうなのか?などの疑問が浮かび、迷っていたのですが、近頃はその方向に疑問を抱くようになっていたのでした。