ブログ - 20191031のエントリ

迷える子羊2。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2019-10-31 18:14

  つまり、宗教とは理論や史実かどうか?など科学的に考える分野ではないということでした。男女の恋愛みたいに、好きになる時に、学歴や年収、顔の美醜などにとらわれず、ただ、好きになった、心地好いというフィーリングに左右されるということでした。たぶん、ほとんどの信者たちはキリストの行いや神の言葉に惚れて、入信すると思います。

 私にも、キリストの像は思い浮かびます。汝の隣人を愛せ、右の頬を打たれたら左の頬を出せ、などわたしの本性とは真逆の人間性です。72歳になり、死を待つ状況になって、わたしは自分のほとんどを捨てています。だから、キリストにでもサタンにでも変身できる心境です。が、どうしても、身近にはなれず、それだから、キリストも神も寄って来ないようです。

 信じればキリストや神は近づいて来るでしょうが、その溝を超えられないのです。いつか、キリストが夢の中に現れるようになれば、信者になれると思います。それは死ぬ時かもしれませんが、聖書を学びながら、その時を待っています。

迷える子羊。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2019-10-31 10:18

  前週の日曜日、教会に行ったとき、佐藤さんに話しかけた。

 「佐藤さんは、神をどんな時から感じるようになりましたか?」

 「それまでは感じたことはなかったのですが、大病を患った時からですね」

 「神の姿が見えるのですか?」

 「いや、声が聞こえてくるのです」

 「ほう。どんな声がですか?」

 「ここに書き留めています」

 彼は手帳を開いて、見せました。

 小さな字で毎日、びっしり書いてありました。

 「わたしは教会の中では神を感じることがあるのですが、外に出ると、元の人間にもどってしまいます。女に目が向いたりします」

 わたしは言いました。

 彼は黙っていましたが、神の声が聞こえると言うのは、彼が聖書で学んだことが、木霊になって戻って来てるのじゃないか?とわたしは考えました。

 それから、彼は演壇に立ち、説教をはじめました。

 いつもの牧師が出張のため、不在で、古くからの信者が話をすることになっていたのでした。

 彼は、迷える子羊、の話を始めました。ルカの福音書、15章に書いてあるたとえ話で有名な部分です。

 (あなたがtのうち、百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ったときに、九十九匹を荒野に残し、失われたものを見つけるまで探しに行かない人がいるでしょうか)という文面です。

 この内容は私の心に残るものでした。

 まず、自分が洗礼をうけるようにすすめられながら、迷っている状態であったのです。

 聖書を学び始めて、書いてある内容が事実なのか?進化論とくらべてどうなのか?などの疑問が浮かび、迷っていたのですが、近頃はその方向に疑問を抱くようになっていたのでした。

 

 

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