ブログ - 20190826のエントリ
キリスト教の教会に通い始めて、三年になるが、生命やこの世の仕組みについての好奇心は強まるばかりである。謎が次々に湧き、二千年も前に書かれた聖句と照らし合わせ、自分一人で納得しているようなものである。科学の発達で高度になっていく数式よりも、言葉の方に力を見出し始めた。アナログとデジタルと言ってしまえばそれまでである。優れた俳句が5・7・5の短い語数で宇宙をも現すことができるのと比較して複雑な方程式はどこまでも狭い世界に落ち込んでいくばかりで疑問をいだいてしまう。
こんなことを考えた。
血の色はなぜ赤いのか?ヘモグロビンのせいだということはネットにも書いてるが、誰が何故、赤い色を指定したのか?と考えてしまうのである。すると勝手な推測が湧いて、赤信号、赤字、赤(かつての日本共産党はそう呼ばれていた)赤点など凶事を現す一方、赤い炎、赤いバラ、真っ赤な太陽、赤子、赤飯など情熱と吉事も現している。人が出血した場合、目立つ色によって気を付けろ!という赤信号ではないか?聖書に書いてあるように神が人に生きよ!と指示していることが思い出される。他方、昆虫や幼虫の血は緑色である。それは周りの緑葉に混じって、敵に発見されないような保護色の役目をもっているのではないか?
人は畑に穴を掘って、野菜の種を入れる。種は地中にいるので鳥に食べられなくて、生きることが出来る。芽が出た時、鳥はそれは食べずに、蝶の幼虫などが餌にするがに芽は匂いを出して寄せ付けないようにする。まれに、食べられる場合があるが。そうして、芽は育っていくが、その前に畑に残っていた草は芽より早く成長し、野菜に太陽の光が当たらないようにして成長のじゃまをし、自分たちを優先させようとする。人は草をむしり取って、野菜の成長を優先させ、自分たちの生存を守る。草はいくら取られても、いや、取られれば取られるほど元気になって成長し、人は、また、草取りをさせられることになる。
草は酸素を出して、人や動物を生きさせ、人や動物は炭酸ガスを出して、草や植物を生かしている。すべてが需要と供給の関係にあって、生態系、自然を営んでいる。誰がその仕組みを仕組んだのか?これは高度な科学でも説明できない。だから、どうしても絶対者を持ち出さなければならなくなってしまう。
そこに、神の出番が待っている。