ブログ - 20190101のエントリ
あるキリスト教宗派の信者たちは、人間は不完全ですから、といつも言い、完全である神、を持ち出してくる。自分はそれはそうだと思いながら聞いていたが、昨日、友人との会話の中で、待てよ、と考え直した。
信者たちはジグソー・パズルを例に出し、聖書は四十人の使徒たちによって、さまざまな職業の人が関わって書かれているが、読み上げるとジグソーの作る絵のようにまとまるともいう。それはそうであろう。なぜなら、人の手によって何度も編集された作品であるからだ。
四十人の使徒の一人も、聖書の項目の一つも、それだけでは不完全であるが、まとめ上げれば完全な作品になる。つまり、不完全が完全を創り上げ、不完全は不完全同士が補完し合って、共生し合っているのである。
生命の構造や人の種類、社会、政治などすべては不完全の融合によって出来上がっている。
それは製造された製品の場合もそうである。車のタイヤはそれだけの性能を持っているが、車に取り付けられて初めて役割を持ち、同時に、車もタイヤが取り付けられることによって車になる。それだけでは自立できず、独立しえないのである。
構造と言う考えからとらえてみれば、男と女、性的少数者、障害者などに区分しなくても、人間そのものが不完全なのであり、それが集まって社会や世界を作っているといえる。一人で生きる人や生命体は存在しえない。
区別はあっても、差別は無意味であり、構成要素という意味においてすべてもものは対等なのである。足の不自由な人がいたら、手を自然に差し伸べてあげる。これが構造への補完であり、すべての世界はそのようにして構成され、動いている。動いていると言う事は完全であると言う事だ。
そのように考えれば、ほとんどの人や世界の存在と動きが納得できる。自分自身や他人に完全を求めるから、人間関係のトラブルは発生するのである。