ブログ - 20180629のエントリ
雅樹は三十五歳で,東京での生活を切り上げ、帰郷した。実家に住むようになったが、父母は新築した家に越していて、彼は広い家で独りで生活していた。弟の和信はその後を追うようにして、大阪から帰郷した。兄に財産を独り占めさせまいとしてであった。
和信は金はあればあるだけ使う男で、無一文であった。大阪の外語学院で英会話講師をしていた時の生徒(芳子)と親密な関係にあったが、彼の気分屋と利己的な性格が絶えず、彼女に不安と怒りを与えていた。彼女がプレゼントに,ジャンパーを買ってあげると電話で告げると、そんなものはいらない。今の俺にそんな余裕はない、俺の人生の邪魔をするな、と言って邪険にし、結婚を約束していながら,絶えず突き放そうとした。
十九歳の芳子は家出をし、和信の故郷の海で飛び込み自殺をしようとして、二度決行する。決行できず、和信の家に住む雅樹に助けられる。和信は遠い都会の飯場に住み込んで土方生活をしていて、芳子は訪ねて行けなかったのである。
芳子は雅樹の家で待つことにして、二人だけの生活が一週間続いた。雅樹は彼女の食事を作り、風呂を沸かした。彼は職を探していたが、見つからなかった。
その日、芳子と和信は決着をつけることになって、電話で二十時に帰宅すると約束していた。雅樹と芳子は小さな電気炬燵で向き合って、待っていた。和信は約束の時間を三十分過ぎても帰って来なかった。
「そこに座ってたら寒いだろう。こっちに来ない」
その言葉が誘発し、事が起こった。
帰って来た和信と喧嘩になった。
後に、事件に発展していく。
これが現在、書いている(歩き神)という小説で、自分の経験を基にして、創作が入っている。それから、雅樹と芳子は抱き合ってしまうわけだが、それは雅樹に責任があるか?彼は罪を犯したのか?ということがテーマになっている。毎日、犯罪事件を新聞で読むたびに思うのは、犯人はほとんど因果関係の(場の流れ)の中に入っていて、それに流され、彼の意志と関係がなかったのではないか?ということである。状況の構造の中に入ってしまったのではないか?と考える。凶悪犯罪を犯した者は、(興奮しすぎていて)よく憶えていない、と答える場合が多いが、それは事実だと思う。
(罪)とは人の意識がつくるものであり、野生動物を含め、自然界にはない。
キリスト教は人の原罪を核にしているが、私は逆に、(罪人はいないし、皆、善人である)と考える。子供は皆、可愛い顔をしているではないか。大人になるにつれ、善悪や罪を教えられ、笑顔を失っていくのである。
(禁断の木の実)を食べたから,罪人になったのである。