ブログ - 20180619のエントリ
キリスト教を知るために、聖書を学んでいる。週に一度、神父とともに聖書を読んで、討議をし、日曜日には教会(その宗派は王国と呼ぶ)に行って話を聞き、信者達と握手をし、神についての会話をする。現在、取り組んでいる小説は人間の原罪が中心になっており、自分の体験が含まれていて、そこに神やキリストの言葉を登場させることにはすごい意味が出てきている。だから、創作の部分においても心の部分においても救われることが多く、禁断の木の実、カインの末裔などの内容は身につまされる。
三か月前に神父が初めてわたしを訪れた時、研究の対象としての関心はありますが、信仰としては関心はありません、とわたしは言ったし、その方針は変えないつもりであった。
小説を書きながら、三十五年前に起こった出来事を思い出し、作品の中で登場人物たちと再会してみると、懐かしさ・喜びと同時に苦痛・罪がよみがえり、耐えられなくなってくることがある。(どうすればあの信者たちのように神を信じられるようになるか、今度、尋ねてみよう)などと、考えたりするが、神が地球を作り、宇宙を作り、夜と昼を作り、生物を作り、人を作り、などという行為がどうしても信じられない。
人生の苦痛は捨てて、自己を捨てて、神にすべてを預け、お任せしなさい。自分の人生も心も神に預け、判断をお任せしなさい。そうすればあなたは救われ、本当の自由が得られるのです。
いつの間にか、わたしはそんなことが、独り言として、出るようになった。
これが救いなのだとわかってきたが、そうなるには、右の頬を打たれれば左の頬を出す、淫行を禁じる、奉仕活動をする、先祖の墓を捨てる、など条件を実行しなければならない。自由な考えや行動も捨てざるを得なくなる。
これまで自由を満喫してきたが、疲れが出て来た。自由であることは楽しかったが、苦痛になり、それを捨てて、(神の王国)の住人になる日が訪れるかもしれない。