ブログ - 20180608のエントリ
これは、吉幾三さんの(酒よ)という歌の詩であるが、今、わたしはそれを持ち唄にして練習している。ユーチューブでの視聴者数が五百万を超えているから、かなりの人気である。九州に住んでいると東北訛を耳にすることはないが、東京に行くとよく耳にする。あの訛は何とも言えない日本人の原質を感じさせる。彼らと工場の現場労働を何度か共にしたことがあるが、その忍耐力には圧倒された。口数や不満声も少ない。東北は貧しく、明治の頃は飢饉が起こって、娘を身売りに出さざるをえなかった時代もあり、九州人であるわたしとは少し違う世界で、今世紀は東北大震災にも見舞われた。宮沢賢治、石川啄木、太宰治、深沢七郎などすごい作家を輩出しており、その系列の中に吉さんが位置づけられ、この歌も淋しくそして家族への愛に満ち溢れ、涙なしには歌えない。
今の時代には人の涙を目にすることが少なくなった。笑い顔を目にすることも少なくなった。能面顔が増え、感情が消え、それは感情を交えると言う人間の基本を失っていることなのだ。歌の世界でもオリジナルが消え、コピー・張り付けが横行し、こんな猿真似をして作曲家や作詞家は恥ずかしくないのかと思うことが多くなった。
カラオケ教室でこの歌をうたうと、(あの人はやはり淋しいのが好きなのね)と女性とのささやきが聞こえ、そのとおりだと思う。淋しさ、暗さがわたしの原質であるが、時代はそれを歓迎しはしない。
古里の駅からは 恩師と友が
青森の駅からは母一人
泣きながら追いかける 着物の母がいた
何時の日か また いっしょ 暮らせる夢乗った
居酒屋の片隅に 置いてたギター
つま弾けば 思い出す 演歌節
冷酒と酔いどれと 涙と古里と
年老いた父と母 子供となあお前
それぞれに人はみな 一人で旅に立つ
幸せになるために 別れてなあ酒よ
わかるよ なあ酒よ
これは同じく(酒よ)の三番目の歌詞であるが、吉さんはステージでしか歌っていない。生活のために故郷を捨てざるをえない東北人の、典型的な心である。