ブログ - 20180113のエントリ
相撲行司の式守氏がセクハラ疑惑を持たれ、引退するかどうかでもめている。セクハラは今や世界的に問題化され始めているが、マスコミ関係者や有識者たちはセクハラの加害者のことは悪行として取り上げる。が、その本質に迫ろうとはしない。それは自分(男性)の仕事を失う可能性が大いにあるからである。
(レア)と時々呼ばれるわたしは敢えて取り上げてみたい。無名であるがゆえに許される特権である。
先ず、善悪の基準を外してみたい。そうしないと本質に迫れないからである。女のセクハラだって現実的にはあるのだが、数が少ないのでほとんど取り上げられることは無い。それに女が相手に好意を持っている場合は、逆に歓迎されるので、セクハラかどうかの判定基準は微妙である。セクハラをする男たちは、自分のことをどう想っているのか、試すこともあってやるのである。それが執拗になると訴えられる。やめておけば良いものをつい手が出てしまう。(この手が悪いのよ!)と手を叩かれてまだ続けるのはリピドー(性欲)のせいである。女にだって当然性欲はあるのだが、ベクトルが逆なのである。押すエネルギーと引き込むエネルギーのちがい、つまり重力と引力の関係であり、実は同じエネルギーなのである。リンゴが落ちる、とみるのか、地面に吸い込まれた、と見るかは、観察者の目線がリンゴより下にあるか上にあるかで異なってくるのと同じである。
女にだって魅力があるから、セクハラを受けるのであり、まったく魅力がない場合はそばに寄って来られることもないであろう。地球に重力がある限り、生物は生き続け、セクハラも戦争もなくなりはしない。
先ほど見ていた夢は、これは夢であると知りながら、見ていた。五年前まで住んでいた大きなボロ家の中で、近所の子供たちと遊んでいる夢であった。部屋がたくさんある家で、母が昔、学生の下宿屋をやっていて、私はその広い座敷で産まれたようであった。渡り廊下のそばに池があって、魚が泳いでいて、十年前まで色とりどりのドイツ鯉を私は飼っていたが、夏のある日、酸欠を起こして死んでしまった。悲しかった。
幼い頃は近所の子供たちの家に行って、かくれんばをしたり、お医者さんごっこをしたりして、遊び、6,7歳になると、パッチンや石蹴り、縄跳び、ビー玉でインキョと言う遊びをした。親たちはどこの家も仕事に出かけていたので、自由に遊べた。かくれんぼをする時には気に入った女の子と押し入れの中に隠れ、抱き合い、性器をいじったりした。乱交みたいのもやった。
近頃は幼い頃の夢をしきりに見るようになったが、幼少の頃は夢のストーリーを自分で操ることが出来た。隣の家の女の子に会いたいと思えば、自分の体が宙に浮いて行き、畳の上でセックスをし、目覚めるとパンツが精液にまみれていた。
先ほども、幼馴染と思われる子供たちが俯いて遊んでいた。これは夢だなと私は思い、これから自分の欲望のままにストーリーを進めようと考えながら、夢を中断させたくないと判断し、けっきょく、目覚めてしまった。
そして、いつか目覚めぬ朝が来るであろうが、その時は夢の世界に住んでいるかもしれない。