ブログ - 20171225のエントリ
わたしと同世代の人は連続射殺魔として彼の名前を憶えているであろう。四人もの警備員をピストルで撃ち殺し、逮捕され、死刑囚として刑務所で生きていたが、20十年前、死刑が執行されたのであった。今日がその日から二十年目であることから鎌田というルポライターが今日の朝刊に、「根は今も」という題で彼の事や今の時代を書いている。わたしは懐かしさと同時に自分の時代が終わったことを感じた。
永山さんは当時、青森から集団就職で上京し、底辺の労働をしていたが、19歳で無縁の人を殺した。事件は大きく報道されたが、彼は独房の中で多くの本を読み、貧乏が自分を殺人に走らせたと考え、評論(無知の涙)や小説(木橋)を書き、(木橋)は新日本文学賞をとった。わたしは大学卒業後、臨時工の仕事をしていて、東京・東中野にあった新日本文学学校に通っていて、(木橋)の合評会に出ていた。(殺人者が文学賞をもらう資格はない)と生徒からの意見があった。わたしがその作品を読んだ時、何と拙い文章であろうと反発を覚えていたが、読み進むうちに作者が独房の中で故郷を思い、母親と駅員の不倫の現場など思い出して描く熱意に心を打たれた。子供の描く絵と同じく、拙ければ拙いほど作品は生き、輝きを放っており、わたしは殺人者であるから書く資格はない、とは言い切れないと考えた。
彼が賃金奴隷であったのであれば、私は受験奴隷であった。どちらも青春を時代に売り渡し、幸せではなかった。ある時、私がビルの建設現場でコンクリート破片や木の屑を集める仕事をしていた時であった。仕事を終え、飯場で夕食を済ませて、ある部屋の前を通りかかって、驚いた。大広間に四十人近い子供がきちんと並んで寝ていたのであった。何事かわからず、関心も消えて通り過ぎたが後になってわかった。集団就職で上京し、建設現場で働いていた中卒者たちが早めに寝に就いていたのであった。遊び盛りの彼らが3K(きつい、汚い、危険)の仕事をしていたことに思いついて、わたしは胸を打たれていた。
永山則夫さんはその子供たちの中の一人であったのだ。(無知の涙)の中で、貧乏が自分を殺人に走らせた、と書いていたがわたしは理解出来ず、言い訳だと考えていたが(木橋)を読んでの感動は忘れられなかった。
ルポタイターの鎌田さんは大学卒業後、トヨタ自動車に季節工として入り、自動車組み立て労働をしながら、(自動車絶望工場)を書いた。わたしは日産自動車に季節工として入り、自動車組み立て労働をしながら世に出ない小説を書いていた。