ブログ - 20150403のエントリ

ハードディスクに針が落ちる時。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2015-4-3 6:56

 今、目覚め時だが、さきほど布団の中で見た楽しい夢を思い出す。電車の座席に座っていた。窓外の景色がパノラマになって流れ、桜の木が赤、桃色の濃淡をまじえて花咲かせ、小川が流れ、田野の草原が広がっていた。その景色が次から次へと流れ、いつまでもつづくのであった。場面は急に変わり、わたしは都会に住み、その広い部屋で(本当の)妻と住んでいた。なごやかな生活であった。友人がたくさん訪れる日であった。いや、友人宅だったのか(今は昔)になってしまった。床に親友の短い頭髪が一面に落ち、フケも混じっていた。まず、床をきれいにしようということになってホウキで掃き始めた。親友も仲間もいっしょになって頭髪を集めていった。

 昨日は竹の子堀に出かけ、現場で皮を剥いたが大きなバックに溢れるほどの量になった。8キログラムほどである。山の斜面で体を支え、小指の大きさほどの芽を見つけ、トウグワで掘っていく。竹の硬い根が這っていて竹の子を守っている。トウグワで切り、汗まみれになって掘り下げていく。心臓は大丈夫か?と心配になることがある。俺もしぶといな、まだ生きている、と思う。

 腰を降ろして皮を剥く。竹の子は二十枚ちかい重ね着をしていて、節が成長した時の節になるわけだが、段差があるので、芽の柔らかい部分は最終的に二十枚近い重ね着という構造になっている。下の部分は土に守られるが芽の部分は寒さに会いイノシシに狙われまわりに敵が多い。芽の部分は赤ん坊のように大事にしているのだ。

 竹はすっかり嫌われ者になってしまった。役立たずというだけではなく森林を侵食して破壊する敵とまで言われ、切り倒される運命である。利用価値がないと資本主義が判断してるわけだが、酸素を出し、土砂崩れを防いでいるという大事なことを(人間中心主義)のこの世は忘れている。

 (今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ)で始まる竹取物語を思い出した。金色の竹を見つけ、かぐや姫が現われるわけだが、わたしの前に現われてくれるだろうか?と夢心地になる時がある。今は昔のことになってしまった、という意味だが日本の古典文学にその書き出しは多い。わたしが(今)と書いた時、(今)はすでになく過去のことになっている。時間の観念を考え出したのは人間が文字を持ち始め、竹取物語の書き出しにあるように、文字にしただけでそれがすでに過去になってることを発見したからにちがいない。動植物には時間の観念がなく、必要がない。経験からDNAを変化させているが、野生動物はその日暮らしだから過去や未来を考える必要がないのだ。イノシシは人間の数万倍の嗅覚を持っているのでわたしが竹の子を見つける前に見つけ、牙で掘り出して食べている。その残りをわたしは掘っているわけだ。まだ地面の下で芽を出しかけている竹の子はたくさんあるがわたしには見つける方法がない。イノシシであれば匂いで見つけるであろう。未来にジャンプすることが出来ということだ。

 人間の意識はハードディスクである。どこに針を落とすかによって過去にも未来にも自在に跳ぶ事が出来る。野生時代に持っていたその能力は知性と引き換えによって失ってしまった。未来の記憶、過去の計画、などという常識外れの世界が実はあるのではないか?夢の中では過去も未来も現実もなく自在に飛んでいる。日常生活は現代文明の体制に洗脳されているが夢の世界ではそれから解放されている。夢の持つリアリティは恐いくらいである。鮮明にして現実以上の実感がある。視覚を通さずにダイレクトに脳で見るからである。

 夢のつづきがあるのなら連れて逃げると言った人、で始まる吉幾三さんの(あんた川)の曲が口をついて出てくる。 

 

 

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