ブログ - 20130530のエントリ
およそ15年ほど前のことです。わたしは宗像市徳重の戸建ての家を訪問していました。そこは公共料金を口座払いで払っていましたが、当社への不満のため口座払いを止め、集金にきりかわったのでした。
3度目までは奥さんが出てきて、気持ちよく払ってくれましたが、主人のほうが当社へ不満を持っていたのでした。主人は体をこわして入院していました・
4度目に主人が玄関先に現れました。退院したのでした。痩せていましたが、70歳くらいの落ち着いた優しい感じでした。当社への批判を手短に話し始めました。わたしはその頃から当社が不満を抱かれるのは当然だと考えていましたから、耳を傾けうなずいていました。
その話が終わると主人は話題を変えました。キリスト教のある宗派の若い女性たちが布教のためによく訪ねてくるというのです。わたしもその宗派の女性に何度か布教を受けていましたので教義の内容はいちおう知っていましたが、宗教は信じるか信じないのかの違いしかないのであまり興味はありませんでした。
「わたしはその若い女の人たちにいつも言いました。わたしは太平洋戦争の前線で青春をすごし、言葉では現せないような体験をしました。あなた達に聞きたい!空腹の経験をしたことがありますか?二日三日、一週間とメシが食べれなかったことがありますか?」
彼は玄関間に立ったまま冷静に話していました。
「若い彼女たちはそんな経験はないとこたえました。そこでわたしは言ったのです。今度は空腹の経験をしてからわたしの家に来てくださいと。それ以来こなくなりました」
わたしは考え込みました。
自分が仕事中に食事の時間がとれず、空腹に苦しめられたことが2,3度あったことを思い出しました。仕事が片付けばいつでも食べれるわけですが、バイクで走りながら、この空腹がもっと続けば自分が食べるためなら何をするかわからないことを知りました。わたしはせっかちな性格ですから食べ物の強奪をするでしょう、相手が言うことを聞かなければ暴力も振るうでしょう。殺人だってありえるでしょう。
飢餓の状態においては善悪論は通用しないのです。
私たち団塊の世代、その後の世代は飢餓を経験していません。それはその前の世代と比較して、考え方や行動において生き方の基本命題を知らないことに通じるのです。