ブログ - 201305のエントリ
およそ15年ほど前のことです。わたしは宗像市徳重の戸建ての家を訪問していました。そこは公共料金を口座払いで払っていましたが、当社への不満のため口座払いを止め、集金にきりかわったのでした。
3度目までは奥さんが出てきて、気持ちよく払ってくれましたが、主人のほうが当社へ不満を持っていたのでした。主人は体をこわして入院していました・
4度目に主人が玄関先に現れました。退院したのでした。痩せていましたが、70歳くらいの落ち着いた優しい感じでした。当社への批判を手短に話し始めました。わたしはその頃から当社が不満を抱かれるのは当然だと考えていましたから、耳を傾けうなずいていました。
その話が終わると主人は話題を変えました。キリスト教のある宗派の若い女性たちが布教のためによく訪ねてくるというのです。わたしもその宗派の女性に何度か布教を受けていましたので教義の内容はいちおう知っていましたが、宗教は信じるか信じないのかの違いしかないのであまり興味はありませんでした。
「わたしはその若い女の人たちにいつも言いました。わたしは太平洋戦争の前線で青春をすごし、言葉では現せないような体験をしました。あなた達に聞きたい!空腹の経験をしたことがありますか?二日三日、一週間とメシが食べれなかったことがありますか?」
彼は玄関間に立ったまま冷静に話していました。
「若い彼女たちはそんな経験はないとこたえました。そこでわたしは言ったのです。今度は空腹の経験をしてからわたしの家に来てくださいと。それ以来こなくなりました」
わたしは考え込みました。
自分が仕事中に食事の時間がとれず、空腹に苦しめられたことが2,3度あったことを思い出しました。仕事が片付けばいつでも食べれるわけですが、バイクで走りながら、この空腹がもっと続けば自分が食べるためなら何をするかわからないことを知りました。わたしはせっかちな性格ですから食べ物の強奪をするでしょう、相手が言うことを聞かなければ暴力も振るうでしょう。殺人だってありえるでしょう。
飢餓の状態においては善悪論は通用しないのです。
私たち団塊の世代、その後の世代は飢餓を経験していません。それはその前の世代と比較して、考え方や行動において生き方の基本命題を知らないことに通じるのです。
先ほど、17時頃、いつもの山道を散歩してきました。雨上がりでしたが、道は頭上高く茂ったヒノキにおおわれ、夜の気配が漂っていました。神秘の匂いを感じさせてくれました。暗がりの中、足のそばにマムシ草が点在しているのを見つけ、立ち止まって観察しました。花弁は茶色になって枯れていて、めくってみるとウロコ状の青い実に変わっていました。花の中にラッパ状の花弁はよくありますが、先端がカマクビのように垂れたのはあまりみかけ見かけません。このあたりだけにその草は茂っているのです。そこは湿地で近くに池が二つあります。池にはカエルが棲んでいて、マムシの好きな餌になるのでそこはマムシの住処でもあるのです。茎の表面は薄茶色のマダラ模様になっていてそれもマムシの胴体に似ています。
人の目にマムシのように見えたのでそう名づけられたのか、自ら変身していったのか詳しいことはわかりませんが、自ら変身したのだとすれば大発見になります。
ウロコ状の青い実がどのように変わっていくのか楽しみです。
結論から言えば、善悪という観点にとらわれて社会や政治、人を見ると本当の姿は見えないということである。私たちはとかく善悪の観点に左右されがちであるが、それは政権側が国民を支配しやすいように作り植えつけたものにしかすぎず、真理ではない。マスコミも善悪の観点にとらわれているから被害者、加害者の区別に走るあまり、被害者の状況や心理をとらえるばかりで加害者のそれらに目をつぶってしまう。沖縄基地における米軍のレイプ、住居不法侵入の事件はあとをたたず、いつも被害者の立場にたつばかりで米軍の置かれた状況にはまったく触れられない。だからこの事件はいつも繰り返されるばかりである。
そろそろ善悪の彼岸をこえる観点が必要である。戦争の問題、従軍慰安婦の問題、政治家の靖国参拝、イジメ、体罰の問題など単に問題を広げただけで終わってしまうことが多すぎる。やがて蒸し返され、マスコミのネタになるばかりである。物理化学的な視点から出来事を分析したほうが解決の方法も見出せるし解決も早いのである。例えば、戦争はなぜ起こるのか?ということになるとほとんどが資源問題であり、特に食料不足に起因することが多い。原因がはっきりすれ経済支援、食料支援をしてあげれば戦争は防げる。北朝鮮の脅迫外交だって相手は金政権が倒されることを恐れての脅迫なのであるから、米国が一時的に平和条約を締結してやればおとなしくなるのである。ところがここにおかしいところがある。実はアメリカは北朝鮮のような無法者を必要とし、存在を利用しているのではないか?警察が暴力団や悪人がいるからメシが食えるように。
物理化学的な分析をすると、人生の問題だって、人生に良いとか悪いとかありはしないし、単なる出来事だと悟れれば(なかなかむずかしいことだけど)意外と簡単にかたづけられることが多い。66歳になってそんなことがわかったような次第です。
ジューン・ブライド(5月の花嫁)という言葉があるように、今は最高に良い季節です。自然に恵まれた我が家ではサヤインゲンの実を収穫してサヤの中から豆を取り出したり、大根を収穫して干したり、芽を出さなかったトウモロコシの種を蒔き直したり、虫に食われたキュウリやウリの苗をもう一度植えたり、楽しい作業に追われています。一ヶ月前にウコッケイのヒナを4匹いただいたのでその子供達に餌をやるようになり、楽しみが増えました。
心臓の大手術をした者にとって、冬は辛いことが多くありました。歳をとった上でのことでしたから風呂場の冷気や布団の中に入って体が温まる時間の長さや戸外に出た時の寒さなどが身にこたえました。この季節にはそんなことが一掃され、すべてが楽しく感じられて、春になるだけでこんなに変わるものかと不思議に思えます。
冬来たりなば春遠からじ、という言葉が西欧にありますが、これには東洋的な響きを感じます。時間と空間を越えた世界があります。そこで私は(幸福度の方程式、その答えは0に導かれる)、と思案したのです。四季の変化が少ない地域、例えば熱帯地や酷寒地に住む人達にとっては暑さ、寒さ、暖かさの感覚は少ないでしょうが四季の巡る地域の者にとっては大いにあります。冬の寒さを知った者ほど春の暖かさは身にしみるのです。空腹を知った者ほど食べた時の満足感は強く、愛に飢えた者ほど愛を受けた時の幸福感は強いのです。それらを方程式に導けば、マイナスの度合い・数値が強ければプラスの度合いは強く、プラスの度合いが強ければマイナスの数値が大きくけっきょく終わりは0になるとう図式なのです。
このように考えると、どんな生き方をしてもどんな人生であっても結局はO(空無)に帰着し、同じことであったということになるのです。それぞれの人生は他人にとやかく言われることではないし、言えないのです。万人の人生は平等でありどんな生き方をして良い、ということであり、私たちは一般常識の規定から解放されるのです。(楽は苦の種、苦は楽の種)と言うことわざがあるように一つの状態がいつまでも続くことはないし、逆に悩みや苦しみに囚われている人はそれがリバウンドした時の解放感がいかにすごいかに期待すべきです。学生時代を思い出すと、試験が終わった日の解放感がいかにすごかったかわかるように。