ブログ - 最新エントリー
この言葉は、太宰治の小説の中に出てくるのであるが、自分の遺言でもあることがわかった。
昨日は人材センターで仕事の話し合いがあったので参加した。弁当配りの仕事をしているのだが、コロナの感染が問題になり、仕事のやり方が変わるという。来月からはお客さんに直接手渡すのではなく、指定された場所に置き、代金は振り込んでもらうようにするという。それは良いことであるが、何か意見はないですか?の言葉に自分は発言した。仕事中に事故が起こった場合の責任についてであった。対人・対物も含めて運転者が金を払うと従来から言っているがそれでは怖くて仕事ができない!私たちは週に一度しか仕事をしていないが労働者ではないか!と言った。すると、いつものように請負であるから個人事業主である。と言う。それは労基署が言っているのか?あんたたちが都合のいいように勝手に言ってるんじゃないか?
と、自分は十年前に労働組合活動をしていた気分になった。つぎに、安心して仕事ができる職場を作るのがあんたたちの仕事ではないか?会員を増やしたいんだろう?そしたらそうすべきであろう?
そこで、横やりがはいるであろう、と予測していたら案の定、入った。自分の嫌いな男が、中村さん、みんな責任を持たされることをわかって働いているんだから、そんなに興奮していうもんじゃない!
誰も黙っていた。
それなら、おれはもうこのことについてしゃべらないと、口を閉ざした。
前の会社で活動していた時もこうやって梯子を外されたのであった。
それから、雪の降った日の仕事についての話し合いになった。狭い団地などは一車線の車道で急な坂道が多くて、ハンドルを握るのが怖いのである。雪の日は、配達を止めるか、町役場の車で回りその保険でカバーするか?など意見が出た。
そんな時運転手の車で配達していて大事故が怒ったらどうするのか?三年前、選定作業を終えた会員がその団地の線路に車ごと落ちてすごい事故になったじゃないか!想像もできない額の請求があって、運転手の任意保険を使ったそうじゃないか!
そんなことを話し合っているうちに一時間の時間がきて、終わった。
帰宅して自分の意見が持ち上げられなかったことに失望し、やはり、以前と同じことの繰り返しであったrと思った。そして、こんな大事なことに人ごとのように聞いている日本人にも失望した。
やはり、わたしは人間の生き方というのがわからないのですね。
大手スーパーのカート整理の仕事を三年間やってきたが、今年から売り上げが減ったということで、一週間に九日間やっていた日数を六日間に減らされた。生活が苦しくなる。昔であれば賃金カット、といって管理職を叩いたのであったが、他のシルバーの会員と同じように仕事があるだけでも感謝と言う気持ちになった。
話は変わるが、近頃その店に変わったオトコが通ってくるようになった。いつも一人で、背筋はきちんと立っているが部屋着のままで、サンダルに素足である。髪は背中まで垂れ、白い顔で、まっすぐ前を向いて一人分の食料が入ったビニール袋を持って人を待っているような気配である。この前は駐車場で両親の運転すると思われる乗用車に乗るのを見た。
一昨日の事、彼がレジのそばに立っているのを見たが、驚いた。ズボンの股間部が濡れていたのである。尿漏れであろう。遠目にわかるほどびっしょりである。自分の肉親に精神病院に長年入り、尿漏れするからパンツを買って来てくれと頼んだ者がいるので、彼のことを思い出した。
昨日、自分は部屋を出、郵便ポストを見に行こうとして下半身がおかしいことに気づいた。ズボンの紐がゆるみ、ズボンが落ちかけていたのである。
笑った。
情けないと思いながらもタイトルの句が思い浮かんだ。そうだ!俳句ではなく、廃句を作ってみよう!新分野が開けるかもしれない。ヨボヨボ爺さんの世界である。面白いことになるかもしれない。
(贖い)という題で三年前に書いたが、その作品に、また取り組んでいる。やっと小説の書き方がわかったように思った。これまで評価されなかったのは、何を書きたいかが読んだ者に伝わっていなかったからだとわかった。登場人物のキャラクターが現れていないという指摘があり、その原因もわかった。つまり、小説らしく仕上げようと意図していたことが障害になっていたのである。例えば中上健二さんの作品には、女のスカートからパンチィが見えた、という表現が時々出てくるが私に言わせればそくそんな下品な言葉が出るな?といぶかしく思っていた。逆に今では、土方一家の生活を描写するうえでは大事な表現なのであることがわかった。
そんなわけで今度の作品は、歩き神、と言う題で、自由に言葉を表現しているつもりである。死ぬまでには公開できると思う。
十年前に、心臓のバイパス手術をしたせいで、毎月、病院に通って血液サラサラの薬をもらっている。一人の看護婦はこの町育ちで、あっけらかんとしていて、どこか面白い。ときどきふざけて私の肩を叩いたりするので、誘いの言葉をかけたことがあったが、まさか?冗談やろう?と軽くいなされてしまった。
ところが先月、彼女から採血してもらい、血糖値と血液の濃淡を調べてもらう時、すごく雰囲気が変わっているのに気づき、どうしたん?と聞いたが答えず、顔を横に向けたままであった。毎日、寒いけ、気を付けないけんよ。脳梗塞やら心筋梗塞は怖いよ・・、と言いたげな気の配りようであったが、どこかしおらしくいじらしさを感じてしまった。これまで見せたことのない雰囲気であった。先月、診察が終わって、金を払う時、二十分近くも待たされたことに事務員にクレームを付けたことで彼女が気を使っているのかとも考えた。
ニ三日たっても彼女のことが胸の中に残っていた。
なぜ、そんな気持ちになったのか?もわからなかった。
今、やっとわかるようになった。これまで何人かの女たちと、深い付き合いがあったが、三人ともその時、俗にいう不幸な状態であった。一人はわがままな被害妄想狂で誰からも嫌われ、行くところがなくなって、私の住むアパートに転がり込んできた。二週間ほどいっしょに生活した。そのアパートに子ずれの女が越して来た。離婚したばかりで夫は詐欺事件を起こして刑務所に入っているという。三歳の子は毎朝、目を覚ますと、寒いと言って泣くのであった。ストーブもエアコンもなかった。生活の面倒を看ているうちに夫婦の関係になってしまった。次は、東京生活をひきあげて、帰郷した年、身内の女が自殺をしに来て、私の住む家に住むことになった事であった。この出来事は今、小説に書いているが、三人の女と親しくなったのはすべて同情からであった。
メディアはその出来事を記事にするかしないかの自由を持っている。記事にすれば現実に起こった事であり、無視すれば起こらなかったことになるのである。取捨選択の権限を持っているのである。以前、メディアは第三の権力と言われたことがあるが、すでに第二あるいは第一の権力になってしまっている。この文章であってもわたしが主宰しているホームページであるからこうして記事になっているが、メディアの世界であれば没にされているであろう。
新聞は読むか所がほとんどなくなったのでとっていない。もっぱらスマフォでニュースをみて世の中の動きを知っているわけであるが、近頃、メディアがどうもおかしいと思うようになった。まず、ウクライナ戦争についてであるが、ウクライナの善戦とロシアのぶざまさ、悪者扱いが多く見受けられる。その書き方は読者の目を引きやすいからであると思う。ロシアの立場そして、どうやったら戦争を終わらせることができるか?などの記事はあまり見うけられない。
近頃の記事は中国が台湾に侵攻して日本と中国が戦争をする、と言うのが増えてきている。戦争研究所や有識者を動員してその記事を書いてもらっているが、おかしい?あなたたちは日本と中国を戦争させたいのか?と聞いてみたい。どうすれば戦争を避けるkとが出来るか?という記事はなぜださないのか?まさか戦争が始まれば自分たちのメディアが儲かるなんて考えてはいないだろうな?
こんな方針だとガルシア・マルケスの小説・(予告された殺人の記録)と同じではないか?あの男が殺される、殺されると噂をされながら、誰も止めようとはせず結局はナイフでずたずたに切られて死んでしまう。実際に起こった事件を作者はドキュメンダリ―に仕立て上げたわけであるが、なんとも現実をとらえたすごい作品である。
メディアで働いている人に言いたい。あなたたちの仕事は出来事を報道するばかりではなく、読者への啓発・啓蒙があるのじゃないですか?
今日のヤフーのニュースで、見た目の判断は差別か?と言う記事が載っていたのでこのブログを書く気になった。近頃は、差別やセクハラに対して過剰に反応する傾向があり、わたしは疑問に思っていた。このまま進んでしまうと何も言えなくなり、書けなくなるかもしれないのである。ドラマや小説が面白くなくなったのは出版社や読者が過剰に反応しているからでもある。
背の高い低い、色が黒い白い、などの表現よりも、その下のひそむ意識、感情の問題なのである。ということは意識や感情を持ってはいけないのか?ということになる。そんなことはない。もしそうであれば人間であることも否定しなければならなくなる。
それより、背が低いことはい悪いことであろうか?人間の体や自然一般そのものに違いが出来ることは当然であり、それを否定するならば単細胞の時代に帰るしかない。そこで皆身長の同じ人間が出来たとする。すると背が低いという判断基準さえなくなるのである。価値基準さえなくなり、衰弱してしまう。単細胞生物の世界がそうである。
差異はエネルギーを生む生命の根源なのである。否定はできないし、優劣の基準で判断してはいけない。優劣で判断するから差別に通じるのである。
その女の人とはカラオケ教室で知り合っただけで、深い関係はない。が、あなたは私の弟みたいで可愛い、心がきれい、といって援助してくれる。貧乏暮らしを見て気の毒になったのであろうが、嬉しい。以前の自分であればバカにされたと腹を立てたであろうが今は有難く思うだけである。野菜を売りに行けば千円ほどにしかならないものを三千円で買ってくれたり、スイカ畑にアナグマが出るので警報機を付けると言えば五千円の金を出してくれたり、それに彼女がもらったいろいろなものをくれたりする。彼女の庭に畑づくりに来ている老婆が泥棒に入られてい衣類まで盗まれたといえば買い置きのパンツをあげたりしている。その他に生活の苦しい女に金を貸したり、相談ごのったりもしているもしているので、彼女の家は人が寄り集まり、親分の家になっている。
今の世の中を見回してみれば、こんな親分たちはどこへ行ったか?さっぱり姿を消している。暴力団の親分たちだって、子分が刑務所に入れば残された妻子の面倒を看たり、刑務所に差し入れに行ったりして、きちんと面倒は見ていた。暴力団が良いのか?悪いのか?は別にして、ここに古来からの共同体の精神があった。今では為政者が福祉という名目で面倒を看ているが、悪く言えば民主主義を個人主義が共同体を壊したのである。
キリスト教会に日曜礼拝に通っているが、そこも女信者達が花や果物や菓子を持って来て、フードロスの活動をしている。やはり女の人が社会活動を始めると男にはできないこと手をかけているのがわかる。子育てもそうであるし、食材に関してもそうである。
今、国会が開かれて審議が始まっている。岸田総理は物価の高騰や軍備の問題でくるしい立場に立たされるであろうが、基本は国民の生活である。このブログに書いた女親分や組長のような気持を持っていれば乗り切れるはずであるが・・・。
わたしは外国に行ったことはなく、外国人との付き合いもない。外国に行ってみたかったが、もう75歳ではおそいすぎる。興味はじゅうぶんにある。五年前、宗像市の福岡教育大学で異文化交流という公開講座があったので参加した。東南アジアやヨーロッパなどの留学生が講義を受け、大宰府の史跡を見に行ったり、相撲の観戦をしたりした。かれらとしゃべり、楽しかった。
スペインの学生がこう言った。日本の相撲部屋は外国人は一つの部屋に一人しか入れないのですね。これは差別ではないですか?わたしは初めて耳にする言葉に驚き、返事が出来なかった。そんなことはニュースになったことはないし、ほとんどの日本人は知らないことである。
考えて、後に返事をした。無制限に入れたら、国技である相撲は強い外国人たちに占領されてしまいます。それはいけないことなので国技を守っているのでしょう。そう言うと彼は納得したようであった。だが、外国人としゃべったからそのような異見がでたのであってそれがなければ自分は知らないし、外国人の日本への見方が理解できなかったであろう。相手の立場に立つとよくわかるのであるから、彼の言うことだってもっともなことであった。
これが誤解のまますすむと戦争にだってなりえるのである。その公開講座にもしロシア人がいて今のようなウクライナ戦争が行われていれば、双方の立場と考えが食い違ったまま戦争に進むかもしれない。ウクライナ戦争は双方が自分の国を守るためだと言っているのである。相手を侵略するためだなんて考えてもいない。
こうして、戦争は始まるのである。今、もしロシア人がとなりに引っ越して来たら、ウクライナを侵略して泥棒やレイプをした国民として見るかもしれない。すると相手もそれを察して悪感情をもつだろう。近頃のマスコミはプロパガンダや広告じみたものが多くなって見分けることが難しく、引き込まれてしまいそうである。
このブログのように公平な立場で表現しなければ、そのうち太平洋戦争の時の大本営発表みたいになってしまう。外国人と付き合う時は、国家より個人として見る目が必要である。
昨日は弁当配りの日で、いつものように運転手の男としゃべりあった。同世代なので考え方もあう。ウクライナ戦争、日本の政治、韓国の徴用工問題、中国の動きなど話題は広く、一時間半の時間などあっという間にたってしまう。
ウクライナ戦争を契機にどの国も軍備拡張の方向に走っているが、相互不可侵条約を結ぶことなど考えないのかな?ロシアもウクライナも戦争で疲れているではないか?と問うと、そんなことが🅂出来るはずはないしそんなことをしても相手は攻めてくるんだ、という答えだった。いや、出来る出来ないじゃなくてそんな考えがなぜでないのか?ということなんだ。
すると、あなたの考えもわかるが・・・・。
と言う返事で仕事を終わり、帰途の時間になった。
そして、昨夜のことになる。十二時ころ、目が覚めて眠れない。うとうとしていると目の前に光る棒が現れた。部屋の境の戸の隙間から廊下の小さな灯かりが射し、刀身のように見え、いつもの幻覚だとわかった。ところがその刀身は反対側の机の椅子のそばに現れたのであった。手で払おうとしても消えないのである。幻覚が消えないと言うのはまさか本物ではないだろうか?と考えながら、布団の上にあったジャンパーで強く払うとやっと消えたのであった。
若い頃、流行った吉本隆明の(共同幻想論)を思い出した。刀身はもしかすると本物ではなかったか?われわれが幻覚だと片づけているものは本物であることだってありえる。信者達が祈る神であっても本当に実在しているかもしれない・・・。
それから考えは跳んで、もしロシア人がとなりに引っ越して来たら、どんな気持ちになるだろうか?と考えた。国家と国民はちがうからロシア人はプーチンに洗脳されているだけだ、と考えてはいるが、ウクライナで泥棒やレイプをしたロシア人だから同じことをするのではないか?と警戒するのではないか?と考えた。
これはすでに共同幻想にはまっているのであるが、すごく現実的な話である。こうして、戦争が始まってしまうと考えると怖くなった・・・。
私たちの心の中で戦争はすでに始まっている。
余命をひかえて二つの大事件が世界を揺るがし、新年になってもまだ続きそうな気配である。コロナとウクライナ戦争である。どのように捉えて良いのかわからず、ニュースを傍観することしか出来なかった自分にもどかしさをおぼながら、今、なんとかもつれた紐がほどけそうになった。
負けるが勝ち、という言葉が自分の若い頃にはあったが、時代はいつの間にかwin winになってしまっている。勝つことばかり知りて負けることを知らざれば害その身にいたる、という家康の言葉はすっかり忘れられてしまった。謙虚や譲るという言葉も消えている。
まずコロナについて言えば、世界的な感染は尾を引いてきたが中国では人口の半分以上が感染し、国が崩壊するのでは?という危機に陥っている。ゼロコロナを目指していたのにオール・コロナになってしまった、国民に何の説明もない独裁国家の豹変ぶりである。理由は、感染させるだけ感染させて免疫をつけ、あとはワクチン接種で対処する方向である。インドが一時爆発的に増えたが、免疫ができたのとワクチンで収まったからである。
この対処法は、負けるが勝ち、という論理である。
そして、ウクライナ戦争にもこの論理は通用する。ロシアかウクライナのどちらかが、負けました、盗った領土は返します、あるいは盗られた領土は差し上げます、と言えば終戦になるのであるが、そんな方向変換はできそうにない。発想も貧しくて、浮かばない。現代は科学の発達で応用力もすごく貧弱になってしまっている。
こんなことを書く自分が負け犬であり、だから書くのである。年賀状は元旦に来たぶんだけに返すことにしていた。文字を書くことさえおぼつかなく、文字の書き直しがおおくなっているからである。七枚の賀状が来てその中の一枚は大学時代の親友からであった。会社で会長になりました。もう少し頑張ります、という内容であった。五年前には社長になりました。もう少し頑張ります、と書いていたのにである。わたしは正月の二日からスーパーのカート整理をしながら、この店は赤字なので出勤日数を減らしますという店長の言葉が耳に残っていた。
だが、今の生活は快適でもある。週に三日ほど三時間のアルバイトをし、あとは農作業ともみ殻取りだからである。電車に乗ることもなく、仕事のノルマもないのである。負けるが勝ち、でもある・・・。