ブログ - 20201113のエントリ
独り暮らしをしていても、ほぼ毎日、食材の買い出しに出かける。それだけ食べていることは健康な証拠だと思うが、献立に迷うことがある。今日は、ススキの冷凍が残っていたので、鶏肉を買い、(鍋)にしようと考えていた。その残りの汁にうどんや餅を入れれば数日は献立を考えなくてもいい。
いつもの安売りスーパーに行って、白菜、豆腐、コンニャク、鶏肉を買い、レジで計算をしてもらった。係の女は黒のツナギを着たいつもの老人を憶えているようであったので、今日は安売り品じゃなくて、定額よ、と言ってやろうと考えながら、金を払った。
台に持って行って、ビニール袋に詰めていた。何気なく、となりで同じことをしている若い女に横目が向いた。人間の形をした小さな像が彼女と向き合い、一心に拝むように見つめていた。赤ん坊であったが、すごく小さく痩せていた。それでも目鼻立ちはしっかりしていて、まじかに迫った母親の顔を一心に見つめている。あまり見かけない体勢なので少し驚くと、若い母親は紐でしばって赤子を抱き、両手で食材を詰めながら、赤子と向き合っていたのであった。可愛いですね!と言葉を出そうとして、心の中に留めていると母親から私の気持ちを計るような気配が伝わって来た。
そこで、(句)を考えていた。
ダイヤのような赤子の目、・・黒ダイヤだと家に帰りついて思い浮かんだ。
あの赤子の黒目、それはまさに祈りの中にいる目であった。頼りは目の前にいる母親しかないことを幼いながら知っているにちがいない。幼少時の頃、自分はあんな目で母を見ていたに違いない。赤子にとって母親は神に近い存在であり、自分のように老いても同じ気持ちをもっているのである。
若い女性の自殺が増えている。このコロナ禍において子供を育てることは冒険に近い覚悟がいる。自分は、迎えを待つ身であるがあの児には未来が待っているのである。どうか、元気の育って欲しいと、心から思った。
七十三歳になって、余命をあと十年だと考えることがある。あの世に逝った父母のことを想うが、父ではなく母のことがほとんどである。
自分にとって母は特別な存在であり、今でも愛着、畏怖、不可解が残り、重すぎる存在でもある。幼少時に母に抱かれた記憶がない、と考えていたら、その頃の写真を取り出してみると、抱かれた写真があった。母の膝に抱かれているが、なんと元気のない栄養失調の青白い顔である。戦後間もなく、食料がなく、母の母乳が出ず、脱脂粉乳で育てられたのである。
その頃、母は自分を独り、家に放置して出かけた。残された自分は這い這いをしながら、玄関間に行き、痛みがまた来ると思いながら土間に落ちた。庭まで這い出し、母を追って泣き叫んだ・・、それからどうしたか憶えていない。
小学校に入ると母は受験勉強に追い立て、国立大付属中学校に入学(無理やり)させた。友達をつくることも勉強の邪魔だといい、受験奴隷にしたが、一流大学には入れず、最終的にはNHKの集金人になった。それを終えて、現在は年金生活の貧乏暮らしである。
老後になって、母は子供を育てる自信がなくなった、と言いながら、それでも父の多額の借金を返し、三人の子供を育て上げ、良い家を建てて、財産を残した。
自分が大学は卒業したが、定職にはつかず、帰郷した時のことであった。母は体調が悪くて、ベットで寝ていた。母のそばに立って、就職の話をしていたと思う。寒い冬で脚に畳の冷たさが張り付いていた。
(そんな所に立っといたら寒かろう?こっちに入らんね・・)
母は言い、自分は驚き、黙り込んで、去ったのであった。
母は布団をめくりかけて自分中にいれようとしたのであった。
ショッキングな言葉と光景は一生、心から離れはしない。