ブログ - 20200326のエントリ
今日のニュースに、小池都知事の外出自粛発言によって、食料品の買い占めが起こった、と出ていた。SNSなどへの書き込みがその現象を膨らませ、パニックにちかいものであったらしい。土人の自分にはジャガイモやサツマイモ、里芋などが蓄えられていて、数日間は生き延びれるが、都市生活者は食べる物が冷蔵庫の中にしかないのである。自分は、今度は、米を作ろうと考えているから、あとはニワトリでも飼えばしのげる。若い頃から、原始生活やロビンソン・クルーソーにあこがれていたので、今の土人の生活はほぼ理想にあったものである。
ティッシュなど一度も使ったことがない。すべて、タオルか布巾で済ますのでまったく必要がなく、ティッシュの買い占めが起こったなどということは信じられない。水は井戸水だから美味しく、絶える不安もない。昨日は便の汲み取りをし、畑に埋めた。まわりには家がないから苦情を言って来る者はいない。火は焚火をすれば足りるし、電気はロウソクでも間に合うから、ほぼ自然生活でやっていけるのである。恵まれているといえば恵まれているが、現代人の生活は都市に集中しすぎている。地方に分散すべきであるると以前から言われながらまだ都市に集中している。
田舎でも、団地暮らしをしている者の趣向は都市生活者と同じである。野菜など作ったことはない、と言う者が大多数で、主婦はせいぜい花を植えることしかしない。幼い頃に自然に接していないと成人してから野菜作りをしようなどとは考えない。
けっきょく、ほとんどの者が土人たちの百姓仕事に頼ってしまっているから、パニックは起きやすい。暴動に発展し、食料の奪い合いが起こるだろうと、自分は若い頃から想像していたが現実化し始めた。
コロナ禍を教訓にして、これまでの生活や生き方に疑問をもち、変えていくべきではないか?
コロナ騒動のつづく毎日であるが、船頭役としてのマスコミはその記事の掲載だけで役目を果たしているかのように見える。感染者が増えた、感染対策が見つかった、薬の開発を急いでいる、株価の暴落に世界の政府が金融緩和に踏み切ったなど、記事に不足することはない反面、それらとちがう視点が抜け落ちている。東北大震災の時も、第二次大戦の時も、そうであった。目先の対応、つまり事変前へ復興への観点しかなかったので、今回のコロナ騒動のように何度も同じことを繰り返すことになりそうである。
自然の摂理を忘れて快楽主義に走り過ぎたことへの反省がまったくないのである。自然を破壊しながら、人間中心・快楽・利便性に走り過ぎた、その反動がコロナを産んだのである。コロナの頭脳は人間の知性・知恵と相似形をなして進化してきたのである、という考えは現れない。コロナは人間の細胞に侵入してRNAをコピーして増える、と書いてあったが、その行動は人間の知性と同格のものである、いや人間を上回っており、それは人間が教えたようなものである、という記事をみたことがない。
こんなことがある。我が山の竹の子はイノシシに食いつくされるので、今年は鉄条網を張った。触れれば針が」体を刺して跳び上がるほど痛いので侵入しないと考えていたが、跳び越えたのかどうかわからないが、侵入して竹の子を掘って食べていた。穴を掘った形跡も押し倒した跡もなかった。夜行性なので侵入の現場をみることはできない。
下にミカン山があって、そこの持ち主は電気柵を張っていて、侵入されたことはなかったが今年は入られ、土を掘りくりかえされていた。どうやら、跳び越えて入っていたようである。跳び越えれば入れることを学び、我が竹の子山の有刺鉄線を跳び越えたのではないか?
そう考えれば対抗者は当人と同じように並行して発達することを知らねばならない。
これが、真の意味での、災い転じて福となす、である。