ブログ - 20141113のエントリ
老人たちの集まりがありました。そこで意外なことがありました。
世間話から性の話しになったのですが、日頃(早く死にたい。お父さんの元に行きたい。息子・娘達は、金をせびるばかりでわたしの孝行はしてくれない)とぼやく80歳過ぎのお婆さんの顔が輝いたのです。(わたしたちは日頃はエッチの話は出来ないので旅行に行った時、部屋のテレビでエロ番組を観て勉強した。未開発地域の酋長が女達のクリトリスを取る「割礼」は彼女らが他の男とセックスをしないようにするため。オルガスムスは・・)などとしゃべり始めたのです。歩くのもヨボヨボで認知症が始まったような女性でしたが、その話はまったく意外なないようなのでおどろきました。
わたしもセックスの好きな男だと自認・公認していますが、自分が80歳過ぎになってもあれだけ興味をもっているだろうか?あのお婆さんには性欲があるのだろうか?などと考えたのです。すると、もう一人のお婆さんが(わたしのお父さんはすぐにイッテしまう)としゃべったのです。
(灰になるまで)とはよく言われることなので特別な話ではありませんが、(猥褻)とは何かと考えたのです。猥褻物陳列罪、というのがあって性器や性交を露出すると捕補されるわけですが、観る者に性欲や性感がない場合は当人にとっては性器は単なる肉体の一部であり、性交も行為にすぎません。
もしかするとあのお婆さんはすでに性欲がないから普通人以上に軽々としゃべったのかもしれません。猥褻感がなかったのかもしれません。
カラオケ教室では毎月、課題曲が決められ、楽譜と歌の入ったテープが渡される。新曲ばかりだから家に持ち帰るとテープを流し、楽譜を見ながら歌って練習する。新曲ばかりだからなじみが無く、安っぽい歌詞だとか歌手の歌い方が裏声を出して妙に媚びてるだとか、わたしは批判的になる。十回、二十回と練習して、教室に行き、歌い方のポイントを指摘してもらう。みんなで何度も歌って練習する。すごく良い気分。そこで自然に自分の歌い方が現われてくる。写真が現像液に浸されて実体を現すように。
一人一人、マイクの前に立って歌う。わたしは歌詞の母音を伸ばし曲を捻ったり遠ざけたり近づけたりしながら、歌詞に心を入れていく。歌の魂をまさぐりながら、捕らえ、自分の魂とひとつになって飛ぼうとしているのだ。魂を捕らえた時、自分が自在にそれを操る自信が湧いてくる。この時、すべてを忘れ至高の境地に陶酔している。鳥になって上昇気流にのり、どこまでも高く高く飛び続ける。
教室を終えて帰宅し、散歩をはじめた時も心の舞台のステージでわたしは歌い、唄の魂と手をつないでいる。
昨日は(霧笛の宿)が課題曲だったが、今もわたしはその魂といっしょになってその世界に酔い漂っている。
文楽、歌舞伎、絵画、音楽などすべての芸能・芸術は魂を捕らえ作者といっしょになって心や体を踊らせる世界だということがわかった。性の世界もそうである。相手の体の反応に魂をとらえ、快感をあやつり、官能のギターを弾いているのである。
歌手とは声の魔術師である。