ブログ - 20130309のエントリ
中公新書・金森修著「動物に魂はあるのか」を半分ほど読みましたが、西洋の哲学者の書いた著述の紹介が多く論点が絞られていないので中断しています。このテーマについては私も関心が深かったので自分なりの考えを書いてみたいと思います。
歴史は動物から人間に変化したわけですから、動物にも魂はあります。しかし、動物と人間はとりまいている環境がすごく違うので人間的な観点から見た魂ではなく(自然)に基づいた魂なのです。人間のそれよりはもっと純粋で厳しいものです。かれらは唸りや叫びまたは体から出る波動やテレパシーでそれを表現し、理解します。だから嘘や偽りはありません。人間は言葉や表情で現すのでごまかしがあります。人間は子供から大人になる期間が長いので、その間家庭や学校で昔の人間の生活や考え方・文化などを学び情緒や感性をみにつけ、人間特有の魂・心を育てていきます。動物は考え込んだり物思いにふけったりしていると敵に攻撃されて命を失うので、魂にひたることは生体のシステムとしてありえないのです。もし自分の子供が殺されて悲しみにふけっている親鳥がいたとすれば敵の格好の餌食になってしまいます。だから魂があっても発現できないのです。人間は自然界で一番強いからその余裕があるというわけです。
それに自然の動物界においては精神障害や依存症は成立しません。ここに現代の人間の精神の病の根源があり、自然界のなかにその治療・回復のヒントが潜んでいます。
以上は野生の動物について述べたわけですが、ペットの犬や猫は人間以上に心があります。同時に人間並みの精神障害にもおちいります。野生の動物にはありえません。
(魂)という言葉はキリスト教にもとづいており、それを信仰しているかいないかで左右されているので偏向性があります。信仰しない者は邪教徒でありサタンなのです。(動物に心はあるか)というタイトルのほうが適切ですし、(物質には心があるか)というタイトルも面白いと思います。風に震え声を出すトタン板や風に擦れあう竹林のそよぎは心を現していますし、音の表現で成り立っているのは音楽の世界です。ベートーベンの第九などは思想そのものを訴えてきます。
自然を見習い、もっと自然を知り、自然から知恵を学び取ろう、というのが教育の原点であり、私たちが向くべき方向なのです。自然を破壊することは人間を破壊していることです。
一寸の虫にも五分の魂、という言葉が東洋にあります。東洋思想からこのテーマに取り組んだほうが
もっと理解できるのではないでしょうか。