ブログ - 日記カテゴリのエントリ
8年前、息子が高校二年生の時であった。
(お父さん、ゲームのカードを買いたいから、車で乗せて行って)
(おー、良いよ)
わたしは軽く答えて、にんまり笑った。
息子は6,7歳の頃から、冬の寒い朝など石油ストーブにべったり張り付いて飯を食い、その食べ方は障害者のように遅かった。何度注意しても改めなかった。サッカー部に入り、試合のたびに私は車で送迎した。体を鍛え、健康であることが大事で勉強は二の次だと考えていた。中学、高校と進んで、反抗期に入ったことはわかったが、甘え癖、怠け癖、他人のせいにする癖はひどくなっていく一方だった。いつも週に二回は遅刻し、高校から注意されていた。
(学校に遅れそうだから車で送って)
(ふざけるな!学校がいやなら辞めて働け)
(俺の名前をなんでこんな名前にしたん?こんな名前だからなにをやってもうまくいかん。変えてくれ)
(日頃の態度が悪いから人からそんなふうにみられ、名前にもイメージができてしまう)
私は言い、少しは治っていくかな考えていたが、なおらなかった。
(根性を入れろ!根性がないと社会に出ても食っていけないぞ)
(そんな大昔の言葉を使って?)
こんな有様だった。
息子が助手席に乗り込むとシートベルトをつけさせた。
わたしはドアをロックした。
(貴様このやろう、俺が何度言ってもわからんな。お前は人間世界で生きてるから殺されもせんでいられるけど動物の世界だと食い殺されてるんだぞ!)
というと息子に向かい、両手の拳で叩きつづけた。
息子は両手の平で頭をかばっていた。
いつも叩こうとすると逃げ足が速く追いつけなかった。サッカーで鍛えていたからだ。
その日はそのままゲームのカードを買いに行き、息子と話すことはなかった。
次は高校三年生の時であった。息子は公園でタバコを吸っていて学校に通報され、わたしが学校に呼ばれた。(これでお前は退学になるんだな。上の学校に行く金を出さなくて俺は助かる)とわたしは息子を罵倒した。息子は涙を流した。担任がわたしの家庭を訪問し、謹慎処分をくらった息子の様子を見に来た。(先生たちも大変ですね。文部官僚の言うなりになって自分の教育方針を実行できない)わたしは担任に言った。(お父さん、子供をしかったり叩いたりしてはダメですよ。誉めてあげなくては)担任は言った。
その年の春休み、息子は自動車販売店で洗車のバイトをし、専門学校に入り、アパート住まいを始めた。二年間通学しながらバイトをして、その金で自動車教習所に通い、免許を取り、就職した。
昨年の7月、わたしは心臓のバイパス手術をした。手術に失敗して死ぬ恐れがあったのでツマは息子のケイタイに電話を入れたが、(着信拒否)になっていた。息子からはまったく音信がない。
わたしは時々、気にかかった。(便りがないのは良い便り)という言葉があるが、どうしているだろうか?息子を訪問しようと考えれば出来る。
(お父さん、高校の先生がお父さんのことを何と言っていたか知ってる?)
(何と言っていた?)
(おまえは可哀想や。あんなお父さんに育てられからグレたんやな)
そんな会話が最後にあった。
(俺は自分の教育方針が間違っていたとは思わん)
そんなやり取りが思い出される。
さて、今回の全日本柔道女子の監督の暴行事件。練習に遅刻したり練習態度の悪い選手を叩いたり、暴言を吐いたという。マスコミは一律に暴力は悪いというキャンペーンを張っている。
私は今でも息子を殴ったことを悪いとは考えない。
選挙の結果、前町長の宮内氏が約七千票、開発反対派の西田氏が約五千票の獲得だった。二千票の差で前町長が再選したが、西田氏の五千票は開発の署名反対運動で獲得した数とほぼ同じであった。西田氏がもう少し早く立候補の表明をしておれば結果は逆転していたかもしれない。町長の毎日の仕事は様々な催しや会議に参加して顔をうることであり、彼の交際費の中から町民への慶弔金もでており、圧倒的な選挙運動を事前に組織的に展開していた。町議や教育長、町長、副町長、職員達の年収、退職金の数字も西田氏によって公表され、彼女は自分が町長になったらそれらを削り、町長の退職金は0にするとまで訴えていた。このことに開発側の町議、職員、町長、副町長、教育長などは恐れおののき、自分達の既得権を守ることに専念し、あらゆる地縁、血縁、開発業者を動員して得票活動をした。西田氏の町長選出発式には30人、宮内氏の出発式には300人の支持者が集まり、この数字でわたしは宮内氏の勝利を予想した。自民党の麻生代議士も衆議院選挙と重なったこともあって宮内氏と手を組み、開発反対を訴える者は西田氏とわずかな共産党議員だけであった。他は自己の既得権の防衛に走り、岡垣町をどうするかなんて考える者はいなかった。10対1の差で自分が再選すると信じていた宮内氏は五千人の開発反対署名者の数と二千票の得票の差に敗北にちかい苦汁を飲まされた。
海老津駅南口開発にたいして議会ではまだ継続審議なのに、正月明けから金比羅山でチェーンソウの荒々しい響きが鳴り渡っていった。30個はある頂上への石段、その両脇に茂った杉の木が間伐も含めて100本ちかく切り倒され、その後は小学生が動因させらて桜の木を植樹し(きれいな町にしましょう)と訴えかけさせた。町の演出どおりに進められていった。金比羅山の線路側、幅17メートルの杉の木が100本以上倒され、消えてしまった。禿山が赤土をむき出している。そこを17メートル道路にするのである。山の入り口に立っていた樹齢200年ほどの銀杏の木が切り倒され、そのあおりでそばに立っていた社が崩壊し、その弁償は業者がするかどうかもめているらしい。秋祭りのときに子供達が歓声をあげていた相撲場も消えた。
あの杉の木の地面の中で、今年の夏に鳴こうとおもっていたセミたちは殺されたんだな、といつも散歩している男は言い、あの神社の下のお地蔵さんの前垂れはうちの母がいつも作ってやっていたと付け加え、町に苦情を訴えに行っても協議会が了解しているとこたえるだけだといった。
これはまだ序の口で、これから岡垣町の象徴とも言われる金比羅山が破壊されていき、車の走らない広い道路が出来ていくと思うと胸が痛んでくる。
わたしたちは産まれると母親の乳を飲みます。母親は子供の顔を見ながら授乳をしますが、それに飽きるとテレビの画面を見て笑いかけ、子供に乳を与えるようになります。まだ意識の育たない乳児でもそのことに気づき母親の存在よりテレビのほうに関心をもち、その世界を知り、親しもうとするようになります。テレビの洗礼を受けるのです。そこは苦労をしなくてもそしてこの世の真実を知ろうとしなくても、美味しい料理があり、素敵なパパとママそして美男美女が笑いかけるのです。いつも(ハッピイ!ハッピイ、!幸せいっぱい)の世界なのです。こうして学校教育を受ける前からテレビに向かって十字を切るようになり、その世界の信者になっていくのです。そのほうが迷いがなく、価値観も預託できて安心気楽なのです。こうしてテレビにコピーされた人間が大量生産され、体制の一細胞となって、キレイキレイ社会をつくり、自然破壊をしていることにきづかず、無農薬農業を標榜しながら田のあぜ道に除草剤をかける人間ができるのです。
歳をとり、死ぬ間際になり、病院に入っても隣の患者と人生や死について語り合うわけでもなく、イヤホーンを耳にあて、顔の傍にあるテレビを見ながら、世を去っていくのです。
現代をどのように捉えるか?ということになればいろんな捉えかたがあるでしょうが、私は3年前に(デジタルファシズム)という言葉を思い浮かべました。自分の考え事、人の話、新聞・テレビ・ネットの情報の中に数字が主導権を握り、為政者・マスコミが国民をマインド・コントロールし、私たちはそれの信者になってしまっている。数字のマジック、詭弁、欺瞞には空恐ろしさを感じ、実例をあげればきりがなくそんな手品に自分の人生が支配されてきたことがわかれば憎悪さえ沸いてくる。
(高齢者の犯罪が増えました)と新聞が報じていたが、その増加率は高齢者の増加率とどのように関連してるかの数字は出さない。高齢者の人口が増えれば犯罪の数字が増えるのは当然ではないか?
警察官の犯罪が増えたように報道してもいたが、それまでは彼らが前科者情報やガサイレ情報を流しているのは日常的であり、情報公開が義務づけられたにすぎない。テレビ番組の視聴率も首をかしげたくなる。その時間帯にテレビを切っている者の数字は入ってはいないから正確な数値ではない。
こんな報道の仕方では白を黒ということだって出来るのである。事実と真実はちがうのである。当局が都合の良いことばかり言いたければ都合の良い数字・事実を出せば良いのである。都合の悪い数字・事実は隠しておけばよい。
マジックによるこんな操作が東北大震災を引き起こしたのである。新しい時代は合理主義の思想を見直し、再検討しなければならないし、合理主義は偏向し迷信にもちかいものであることに気づかなければならない。時代や思想を大きく歪めてしまったことも。
支える者、支えられる者、あるいは被害者、加害者、あるいは支配者、被支配者、あるいは教祖、信者などにおいて私たちは対立概念を教えられてきた。ところが、支える者、支えられる者においてもわかるように支える者は支えられてもいるのである。(人)の形を例に出すとすると、支えられる側が崩れ落ちてしまえば支える方も支える対象を失って孤立し、崩れてしまうのである。物理学的現象である。
ある初老男は認知症の母親の世話をしていて、食事を作り話相手になって面倒をみている。母親はほとんど家の中にいるが、時には家の玄関と庭先を行ったり来たりして運動もしている。息子の帰りが遅いとふらふらと近くまで彷徨してしまう。現在、彼は母親を支えているように見えながら、もし母親が亡くなった場合支える対象を見失って自分を失うであろう。
ボランティア活動においては助ける側は助ける行為において相手より優位な自分の立場を実感し、安心するのである。だから無償の活動をするのである。これは慈悲とかヒューマニズムとか言うことより力学的現象なのである。
長年にわたって喧嘩ばかりしている夫婦がいる。亭主はツマが不倫をして出て行くか不慮の死にあえば良いと思っているのだが、ツマはいつまでも元気でささいなことで亭主を攻撃する。ある日、自転車をこぎながら買い物に向かっていた彼女が飲酒運転の車にはねられて死んでしまった。亭主はおどろきながらもチャンスがきたとおもい、願っていた再婚にかかろうとするが、喧嘩相手をうしなって意気消沈してしまう。
こんな意外な顛末になるのである。まさに逆説であるが、マスコミ報道や世間の見方をかえてみれば意外な真実がひそんでいる。
遠賀郡で今反対運動が起こっている。現町長が次期の当選を狙って以前からストーリーを組み立てていたのだが、E駅南口開発の事業計画を持ち出し,建設業者に21億円の金をばらまき票をとって次期町長として居座ろうとしている。彼が言うように南口を開発し、金比羅山のノリを削って道路を作り、地下通路をもうけ、駅前広場をつくったとしても利用者はいない。わかっていながら彼は支持団体に操られているだけである。はっきりいってしそんなことはどうでもよく、納税者の懐から金をかすめとればいいのである。有権者の20パーセントが反対の署名をしていても操り人形は意に介しない。
反対運動を起こした女性議員がいて一生懸命に活動をしている。スーパーマーケットやE駅前で市民に呼びかけていて、無償の運動員が頑張っている。かれらは日当が出るわけでも交通費が出るわけでもなく、自分の主張を通してもらうためにビラを配り、開発の理不尽さの説明をしている。女性議員は町長選に出るつもりであるが、運動員は(これは女性議員のためではなく、自分のためであると考えている)から無償の行為ができるのであり、これが本当の選挙活動である、と考える。日本の場合、選挙活動に金がかかりすぎるからあとで取り戻そうとして(利権)に走るのである。
わたしは恐がりやで、小学校の頃から夜トイレに行くのが恐かった。幽霊は本当に存在していて、部屋数の多い我がボロ家、そのトイレに夜遅くもちろん一人でだが行き用を足すことは苦痛であった。二年前、63歳のときだが、その時は小便をして便所からもどり自室に入る戸を開けた時、背後から右の背中を掴まれた経験をした。その感触はまちがいなかったのである。
物理科学に詳しい知人から、(霊とはエネルギーだよ)と教えられて、なるほどと思い、自分なりに考えを推し進めていった。(霊とはエネルギーの残りなのである)と近頃かんがえるようになった。例えば普通の生活でも談笑していた相手が去った時、その椅子にはその人の体温とか匂い、つまり余韻が残っていますよね。それがエネルギーであり、(霊)なのですよ。ある人が部屋で孤独死したとすればそこには(気配)が残っている、それが霊なのです。そう考えると別に特別なものではありません。
幻想、幻覚、宗教の世界も霊的なものである、と考えます。ある意味で人間の聴覚、資格、味覚などの感覚器官は幼い頃から世間常識に教育されて出来上がったものです。この臭いは臭いものである、とかこの味は美味しいものである、とか、この景色は美しいものであるとが、この曲は心地よいものであるとか、植えつけられたものにしか過ぎません。ある時、夢や半覚醒状況において物事を感覚器官を通さずに感じ取ったとき、その世界の臨場感、素晴らしさに驚かされてしまい、虜になることさえあります。それは既成概念に毒されない純粋世界なのです。この世界にはまった人が信者であり、それが私たち一人であっても不思議ではありません。
宗教のない時代はないし、宗教のない世界はありません。その意味でわたしは宗教を否定する気はありませんが、一神教だjけは否定します。
前回のブログ(民主主義でなくて金権主義である)で書いたように政治家は支持団体の利益に操られていて本当の政治が出来ない、というより最初から支持団体が立候補者を選んで操り人形を作り自分達の既得権、利権どうりに動かしている。
政治に無関心な人が多く、投票率は60パーセントくらいであり、それが彼らの仕事をさらにやりやすくしている。有権者の30パーセントくらいの票を取れれば当選するのである。政治に関心を持ち、胡散臭い立候補者を見分けることの出来る有権者がもっとたくさんいて反対票を投じればこんな状況はできないのだが、(誰がなっても同じ)だとか(自分には関係がない)(投票なんて面倒くさい)などと棄権をする人が多すぎる。
まわりを見ても選挙だけではなく、生活の中でも自分の意志を表示しない人が多いのではないか?それが社会や政治、文化をダメにしている。
健常者とはこの世のシステムとルールに基づいて生きている者である。自分の感覚器官の反応が良い匂いだとか美味しいとか気持ちよいとか、生まれた時からテレビづけシステムづけで調教されたとおりの反応形態で育てられた者(教育である)たちである。
ある時(暴走族)になり、信号なんて無視して走ることがどんなに楽しく、同時に交通ルールなんて車の走らない砂漠にはありえない、と気づいた時、現実世界がはっきりと見えてしまう。感覚や常識概念を通さないでこの世が直接的に見えた時、世界の本当の素晴らしさがわかる。それは動物達の目の輝きであるが、私たちは常識概念にしたがって生きることのほうが理にかない素晴らしいという既成概念に死ぬまで浸ってしまう。それは大多数の考えであり、(多数決原理)なのである。人権民主主義の産みだした多数決原理は教義・教祖になってしまった。内実は一部の資本家・金持ちが支配する金権主義であるのに世襲制に基づく封建主義であるのにうまく騙された。歴史は何百年後かにこのことに気づくであろう。
私の知人に更正施設に入っている人がいます。すでに何十年のもわたって真面目に軽作業をし、個室で生活をしているのです。2、3年前まで、(施設を出て、社会で働きたい)と私に訴えてきました。私はそれは当然の希望だと思い、いろいろ彼の将来について思案しましたが、あることに気づきました。(あなたの希望は身にしみてわかる。わたしはいちおう健常者として生きているわけですが、あなたが施設を出て健常者の世界に入れたとしても、常識概念にとらわれて生きている限りそれは精神の牢獄なのですよ)
私はその言葉に気づきながら、言葉には出せませんでした。
(自然が人間に復讐する)という考えは別に目新しいものではありませんが、今晩NHK教育テレビを観てわたしは実感しました。(地球ドラマチック)という番組で、植物の生きる知恵を取り上げていました。昆虫に受粉してもらうためにどんなにキレイな花になろうかと工夫したり、花の姿をメス蜂に似せてオス蜂を呼び寄せたり、養分の不足がちな水生植物がプランクトンをひきよせて食べたり、それは動物に劣らぬ生き方でした。
タバコは葉が虫に食い尽くされそうになったら大量のニコチンを出して、虫たちを退散させていました。ところがある種のスズメ蛾はニコチンへの抵抗力が出来て、タバコの葉に卵を産み、その幼虫が盛んに食べ始めました。するとタバコはあるフェロモンを出してカメムシを誘い、呼びつけました。カメムシたちはつぎつぎに訪れて大好物のその幼虫を食べていったのです。
植物にも人間と同じく意識があるのです。ということは除草剤や枯葉剤を使って草を殺している人、そしてもしかしたらいつも草むしりをしている人に対して草たちはどのように思い、考えているのか想像がつきますね?
かれら、いや自然自体が自分達を破壊する人間を敵とみなし、人間が感じ取れないうちに反撃しているということはおのずから考えられることですね。