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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

野良ちゃん?と呼んでみたい猫。

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-4 5:30

 いつもの山道を40分も散歩すると、集落の家の前を通りかかる。キジ模様の土色の猫がなんともオカシナ顔で私を振りかえる。決して飼い主に飼われるような可愛い顔ではなく、やはり野良猫特有のふてぶてしさと警戒心がある。ゴチャゴチャした模様の顔である。わたしが近づくと逃げることもなく、寝転んでは体を路面に伸ばして。背中を捻り、まだ乳を含んだ乳首のならびを見せる。体を撫でようと手を伸ばすと立ち上がって遠ざかる。近づくと寝転んで腹を見せる。うまくタイミングが合えば体を触らせ、気持ち良さそうにしている。

 近所の人から餌をもらっているのであろう、荒んだ顔だが逃げることはない。空き家を住処にしていて、その玄関先にいることが多い。

 わたしが顎や腹や背中をじゅうぶんに撫で回してやると満足げに横たわっている。別れようとその場を離れていくと、ヤブの中から黒の子猫たちが現れて母親の乳に寄って行った。

 野良猫の姿も最近は見かけることが少なくなった。(野良)の語源を想像してみると面白い。野を良しとする猫、なんとも風流な言葉ではないか。捨て猫、と呼ばれるよりはるかに良い。世捨て人、という言葉はあるが、放棄人、などという言葉はないし、もし現れたら恐い世の中になっているであろ。私の青春時代にフーテンという種族がいて野良猫に近い生活をしていた。髪は伸び放題、髭も伸び放題で街の街路樹の下あたりに座っていて、小銭が空き缶に投げられるのを待っていた。今では信じられない光景だが、彼らは一つの風俗に属していて(瘋癲、風転)と呼ばれていた。

耕作放棄地を開拓する

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-3 20:28

 誰が使いはじめたか知らないが、(耕作放棄地)とは奇妙な言葉である。昔から放棄された土地はいくらでもあったが、そんな名前など付けられなかった。そんな不名誉な言い方をされる土地が気の毒になるし、以前は(荒地)という立派な詩の団体さえあったのだ。

 近頃は聞かれなくなったが、(古新聞、古雑誌、ボロキレなどありませんか?画像のみれないテレビ、音の聞こえなくなったラジオなどありませんか?)と声をかけながら廃品回収業者が回っていた。それは(動かなくなったオモチャ)から(動かなくなった人間)にまで進みそうな予感がする。

 もとの話にもどると、(自然)とは人間が関わらないから(自然)なのであって関わってしまえば(自然)ではない。耕作放棄地という言葉は(人間が関わらないものの存在、役に立たないものの存在はは認められない)という尊大さを含んでいるし、(自然)や(自然状態)をも否定もしている。

 まさに現代の資本主義を象徴する言葉であるし、この時代が生んだ言葉である。

 こういうわたしは700坪の宅地の片付けが終わり、耕作放棄地に通いはじめた。約1000坪ほどの広さであるが、春に竹の子堀りに行くだけであとはほったらかしである。孟宗竹が生え放題で暗く、谷間に近い地形でおまけに石ころだらけである。チェーンソーで立ち枯れや生きた竹を切り、倒していくのだがエンジン・チェーンソーの使い方になれず、チェーンが外れたり竹の切り口にかんだりして苦労した。最初は中国製の安物チェーンソーを使っていたので何度も販売店に行ってエンジンをかけてもらったりしたが、ついに二度も返品し、買いなおした。

 枯れた竹は集めて燃やした。今では作業も順調に進み、竹と竹の間が傘をさせる広さにもっていけそうになった。陽の射すきれいな竹林が出来そうである。

 だが民家から300メートルも離れたここに誰が来るだろうか?と考える。初夏から9月まではヤブ蚊に襲われ、冬は寒いばかりである。竹の子が芽を出す頃はイノシシの運動場になり、人間が探すより先に食べられてしまう。

 だから、(耕作放棄地)なのですよ、と石ころ達は言っている。

 それはわかる。しかし、わたしにとってはそんな場所が(希少)なのである。誰も来ない所、何も無いところ、時々竹の鳴る音が(カーン)と響くだけの無音の世界、なんとも言えない自然の空気がある。開発に押されてそんなところは消えていっているが人間に酸素を補給し、pm2.5から守ってくれる貴重な存在なのである。

 こんな所、こんな人々こそわたしの友達なのである。

オナニーは最高のセックスである。

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-10-26 21:01

 そんな言葉を口にした親友がいた。

 考え方の違いから彼とは離別したが、わたしは時々思い出してはその言葉を吟味してみる。なるほどとうなずいてはその内容が深まっていき、自己体験も含めて合点がいく。彼はわたしと歳が近いが独り者であり、彼がいうには三人もの女と同棲したが子供が出来ず結婚にはいたらなかったという。

 何人かの女に訊いたことがある。オナニーをする時に男との性行為を想像するか?と。想像するという女もいたし、まったくしないという者もいたが、物理的な摩擦で昇天するというのは板を擦って火を起こすような味気ないものだと思う。想像の世界は無限に広がり、それは創造力に直結し、人間だけが持つ特権だと思う。動物を見下げるわけではないが動物にはないし、かれらが想像世界になんかふけっていたらたちまち敵に食い殺されてしまうだろう。

 現実界は生生しい臨場感、リアリティがあるが、余分なものやじゃまものがあり、集中力が失われやすい。想像の世界は純粋に引き絞られ、針の先のような集中力を生むことができ、目や耳といったツールを通さないからダイレクトに脳の中で展開させることが出来る。セックスは闇の中ですることが多いがそれは敵の目に触れさせない意図と意識を集中させるという意図がある。

 オナニーをする時、男であれば自分の中に潜む女を呼び出す。自分が興奮するように女に下着を脱がせ、太腿をはみ出させる。想像の世界であるから演技は無限にある。まぶたの裏で展開する世界はまるで観客席から見てる舞台のようにスポットライトに照らされ、まぶしいばかりである。女を演じる女形は本物の女以上に色っぽく、男を誘惑する。男の中に住む女ほど魅惑的なものはない。

 言語で表現する世界が精神世界とすれば数式で表現する世界は物質世界である。どちらも記号にしかすぎないが、そこではプラスー(男)、マイナスー(女)がすさまじい火花を散らしながらエネルギーを放出し運動をしているのである。

 男でも女でも同性愛にはまると抜けられない、というがそれは同性だからどうすれば快感を与えあるいは得るかをじゅうぶん知っているからであり、それはオナニーと同じである。オナニーもどんな行為で自分が興奮するかを知ってて行うから現実の女以上に感じるのである。自分を相手にセックスをしているのである。

 その親友は次の言葉もよく口にだした。?自作自演の人生さ、笑って死んでやろう。

 (自作自演)とオナニーという言葉がすごく共振することに今は気づくのである。

顔の化粧より心の化粧

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-10-22 7:51

 一週間ほど前、民放のバラエティ番組を観て、面白かった。日頃はテレビを批判してるのだが久しぶりにみてみると、うまく作ってあるな、とおどろいた。これでは大宅壮一氏が40年前に言った(一億総白痴化)という現象が自分もふくめてありうるな、と考えた。60、70、80歳の女性タレントが出演してワイワイガヤガヤとしゃべっていたが、みな顔の整形をしていて40、50歳にしか見えない。デビイ夫人がいて、この方は40年前からマスコミをにぎわしていたのだがその頃とまったく変わらない顔と声で私の目の前にいるのをみてまたおどろいた。淡路恵子さんも80歳の顔を出していたが、その若々しさにおどろきより恐怖を覚えてしまった。(女は怖い)と昔から言われていたがそのとおりである。

 40年前、顔の化粧より心の化粧、というコピーが流れていたがその時を超えて、時代は(心の化粧より顔の化粧)を実現してしまった。総理大臣みずからが美容整形をする時代である。たまに電車に乗ってみると、車内でしゃべっている高校生なども皆鼻が高く整形してるように見えてしまう。

 話は変わって岡垣町の金比羅山のことになります。町長はその両側の長い石段に千本桜を植えて美しくしようと言い、古来から生えていた桜の木を全部切ってしまいました。植樹祭をイベントをもうけて地元の住人や小学生などに植えさせ、苗に名札付けさせました。その後は手入れは業者に任せていました。先日散歩がてら、見に行ってみると苗のまわりの草が黒ずんで枯れているのです。除草剤をまいたな、と考え町の建設課に行って問いただすと、除草剤はまいたけどあれは30分もすると大気中に拡散して消えてしまう、と言うのです。

 私は唖然としました。大気中に混じった成分は雨になって地上にもどり、地中に吸い込まれるではないか!と反論しましたが職員は黙っていました。彼の胸のワッペンには次のように書いてありました。(自然と人のハーモニー)と。

 田舎に住みながら、自然が消えていっているにが目に見えてわかります。川にいたアメンボ、ヤゴ、ドンポが消え、田んぼからはゲンゴロウ、エビ、タニシが消え、自宅の庭にいた鳥、ミミズ、カミキリムシ、トンボなども見かけなくなりました。かれらは私たちの仲間、友達でもあったのですが消えて寂しいかぎりです。

 人間たちが顔の化粧に夢中になっている間、自然は破壊されて醜くなり、死に絶えていくのです。顔の化粧が落ちる時、皮膚の下から現われる青ずみやケロイドは見るに耐えないでしょうし、そのうちに顔も溶けて消えいく運命なのです。

 心の化粧とはなんでしょうか?金持ち喧嘩せず、という言葉があるように経済的に余裕のある人は自然な化粧が顔に現われてきます。金がない、職がない、女がいない、住む家がない、病気持ちで辛い、と言った時に笑顔を見せることの出来る人がいればそれは心の化粧というレベルではなく(真顔の美しさ)といえます。そんな境地まで行けずともせめて人と顔を合わせる時は自然な笑顔をみせて心の化粧をしていたいものです。

 

 

 

 

一時間だけの夫婦

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-10-17 19:31

 これは短編小説です。

 

 カレは月に一度、理恵に会うためにそのソープランドに通った。

 片手に二つの弁当が入ったビニール袋を下げ、灰色の洗いざらしの作業服を着たカレは人目につきやすかった。馴染みの店の客引きの男はカレを遠くから見つけ、頭を深く下げた。道の片側はソープランドが看板を並べていたのでカレは他の店の客引きを避け、駐車場から迂回して来たのだが馴染みの男は見逃さず、カレを迎えた。

 カレは笑いながら店内に入り、名前を言って金を払った。予約していたのでスムーズに進んだ。

 待合室に案内されて、三十分後の時間を待った。眼前にテレビがあってバラエティ番組を流しながら時間の表示をしていたので、カレは携帯電話の電源を切った。カーテン越しに客を見送る女の声や店員のお礼の声が聞こえたのでその様子をカレは楽しみ、理恵は今頃部屋の中で自分を迎える準備をしているに違いないと考えた。

 彼女と知り合って十年になる、ということはその間通い続けたということだ。カレは臨時の肉体労働をしながら金をため、月に一度、彼女を指名して会うのであった。頭が悪く、人間関係も下手なカレは四十歳を超えても定職につけず、女も出来なかった。安アパートに住んで生きていた。月に一度のツマに会うために、彼女の好きなカシワ飯の弁当を買ってきて、行為の後にその部屋の中で二人で食べるのだった。カレは童貞であったが理恵が性愛の世界に導き、生きていることの素晴らしさを教えてくれた。ぽつりぽつりした会話の中で彼女がどこに住んでいるのかとか家族のことなど訊くと、そんなことはどうでもいいじゃない!と理恵は強い口調で言ったのでカレは身辺のことは口に出さないことにしていた。

 テレビの時間表示が出会いの時間を告げていた。理恵の顔が近づいてくるようだが五分や十分の遅れはよくあった。慌てることはない。彼女はその時間だけはカレのものである。

 ボーイの足音がカーテンに近づくだけでカレは直感した。

 (お待たせしました。お客様!どうぞ!)

 その声にカレは立ち上がり、眼前の暗い柱の陰に隠れている理恵の方に歩いていった。

 

 ここで付け加えたいのは理恵も人間関係が下手で我がままな女であり、特定の男をつくったり結婚生活の中で男といっしょに生活することを嫌がっているということです。終身雇用制度から派遣労働中心に雇用の世界も変わり多様になってきています。それが良いか悪いかは別にして、結婚の形も前回のブログ(一夫一婦制)の中で書いたように変わっていくと思います。女との付き合い、男との付き合い、が面倒である、そんな若者が増えていると新聞に書いてありましたが、この短編小説にうある男女関係はすでに芽生えているのではないでしょうか?

 

小宇宙と大宇宙はリンクしている

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-10-5 21:28

 少しむずかしい話になりますが、すべての元素の最小単位は原子です。原子核は+の性質があり、?の性質をもつ電子がその周りを飛び回っています。ここでわたしは考えたのです。地球は太陽の周りを公転していますが、小宇宙は大宇宙とリンクしているという説に照らし合わせてみればその二つの世界はリンクしていて、両者の飛び回るスピードは同じではないか?と、わたしはそんな説を唱えるのです。もしかするとそのスピードはすでに測定され実証されているかもしれませんが。

 人間をふくめすべての動植物、物質は元素からできていますので、それぞれの構成物質の電子が原子核の周りを飛び回っていてそれが振動してエネルギーを起こしているのです。人間でいえばそれが精神と肉体(便宜上分けて書いていますが実は両者は同じものなのです)の活動になっていて感情や思考やスポ^?ツや労働の基礎をなしています。人間同士でも人間と動物でも男と女(物質でいえば+と?ですね)の間でも共感したり(共振です)、反発したり、恋愛したり、結合したりするのはこのエネルギーのなせるわざでしかありません。そこに精神的や心を入れるからわかりにくくなってしまうのです。(あの人が優しいから好きになった)のではなく、あの人の元素とわたしの元素が共振しあって愛しあっているのです。男と女の間でいきなりセックスをして快感を燃え上がらせ、結びついてしまうことがありますが、これもおたがいの元素のなせる技です。

 このように考えると、私たちがきれいな花を見て楽しくなったり美味しいものを食べて満足したりするすべての反応の基礎は体を構成している物質・元素にあり、おたがいにつながりあったり反発したりもしている状態がわかります。

 こんなことから物理化学現象が哲学に変わる日は近いでしょうし、物理化学が宗教と哲学、政治、思想を吸収する日も近いでしょう。人生を悩むこともなくなり、すっきりした物理化学的な毎日が訪れるはずです。

大学は必要か?

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-10-4 8:03

 わたしの個人的なことから書きます。父は高校の英語の教員でした。母はすごくプライドの高い女で典型的な教育ママでした。当時は教育ママのハシリと村人たちの噂にのぼる人でした。わたしは田舎の小学校の時からテスト攻めにあい、のんびり過ごしていた連中よりはるかに良い点数をとり、事情を知らないものから陰で神童とうわさされていたようです。調子にのった父母は私を某国立大学の付属中学校に入学させました。入学試験の点数は合格圏に届かず、父のコネで入ったことをわたしは母から告げられました。すごいショックで、今でも尾を引いています。真面目に正しく生きなさい、という信念で育てた者がみずから不正行為をして、母はわたしに次のように言いました。(あんたはお父さんのコネで入れたんだから、ガンバラないけんよ)わたしはもう一度ショックを受けました。自分がわたしを不正入学させておきながら責任をわたしに取らせる言い方じゃないですか?男はこんな真逆な論理はけっして持ちません。それから劣等感にさいなまれ、女という種にたいする憎悪・差別感がうまれ、一生消えませんでした。

 高校・大学は自力で入学、卒業しました。定職にはつかず、結婚したのも三十歳の半ばでした。

 法学部でしたので、頭の訓練もかねて司法試験の法律書を読破し、その問題集にも挑戦しました。小説や思想、政治の本もたっぷり読みました。

 そこでわたしは考えるのです。太平洋戦争みたいな受験戦争に青春を捧げさせられ、その挙句、敗戦をうけたおれの人生、教育とはいったいなんだったのか?人生にたいしては高度成長期の中で青春をすこし、イイ思いもしましたので満足していますが、国営の(教育産業)だけは憤りと怒りがつづいています。とくにその頂点にある大学に対して。不満を書けば際限がないので、大学に行った人生と行かなかった人生はどのようにちがうか?という主題に取り組んだほうが早いと考えます。高卒で就職してた場合、仕事をおぼえ社会生活を身につけることに精一杯で他のことを考える余裕はありません。そこでがんばり順調に世をわたっていければそれなりの人生を送れるでしょう。それは確かです。ところが世の中の仕組みや実態に疑問をいだいたり、会社での仕事がうまくいかなかった場合です。ここでわき道にそれますが、高卒で企業に入った場合、良い職場に入ればいいのですが悪い職場の場合は上司や先輩たちにこき使われイジめられて酷い目あいます。中途退職者が多いのはそれが原因です。

 社会のレールから離脱した場合、多くの人は自分の無能さをとりあげます。反対に社会のほうがオカシイと考えた場合はその理由と原因を持ち出さなければなりません。それが出来なければ自分のせいにするしかありません。自分を責め続けていけば自殺が待っています。

 わたしは高卒者と比較した場合、20年間もの猶予期間がありましたので、(理論武装)がじゅうぶんに出来ています。誰とあっても論争が出来、あるいは先方の思想・考えを吸収することができます。この世の仕組み、この世を操ってるものの正体が見えているので自信があります。ものごとを理論付け体系づけすることが出来るのはやはり法律書や思想・哲学書を読み漁ったからです。

 まだまだ書くことはいくらでもありますが、(この一冊の本)を取り上げてくれと言われれば小説では、カミュの(異邦人)ジュネの(泥棒日記)です。

多様性の時代

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-10-3 18:40

 アメリカのある州で,同性愛婚が法的に認められて数ヶ月になります。新聞紙面でその報道を読んだ時、わたしは、アメリカだから何でもあり、だろうくらいに思ってたかをくくっていました。が今になって、これはすごい時代の変化だな!と考え直しました。アメリカでは同性愛者であるという理由で政府の高官や有名人が辞任に追い込まれたケースはいくらでもあります。日本ではありません。それは西部開拓という侵略精神、海外侵略国家のヒーローが男を愛するなんて(とんでもない、コケンにかかる!)ことだったのです。それでも同性愛さらには結婚まで認めざるをえない時代状況に追い込まれたということは、同性愛者たちが多数派を占め、アメリカ社会がちがう世界の入り口に入ってしまったのです。動物の世界にこんな現象はないし、もしあればそれは子孫の残せないので絶滅危惧種に指定されます。皮肉っていうと人類がみずから指定し、されたわけですね。もとよりアメリカは資本主義の先端をいく国でその波及は世界に広がり、日本だって同性愛婚を法的に認めるようになることは時間の問題です。

 ここにわたしは(多様性の時代)を読み取るのです。

 民主主義は多数決原理により金権主義におちいって利権国家を生む傾向がありますが、多面性を抱合しています。民主主義・資本主義の競争原理のひずみが産んだ同性愛という現象を多様性のカテゴリーで受け入れることはまさに可逆性という物理化学反応でしょう。

 障害者も多様性のカテゴリーの中で考えれば一つの個性なのです。暴力と浪費癖のある者、今では統合失調症のジャンルに入れられた男も一昔前は暴力常習者として取り扱われ、多様性のゆるやかな波の中にいたのですが今では精神障害者として扱われ、施設の中に取り込まれています。野犬や野良犬、野良猫、ホームレスたちが施設の中に消えていったようにいなくなり、キレイキレイ社会の(平和で幸福なコンクリート生活が出来上がってしまったのです。

 ところが社会は福祉でまかなう余裕がなくなり、(多様性)というジャンルにかれらを返すことになるでしょう。異端者や希少人などの少数派は多様性の中に組み込まれていくのです。

 単細胞の分裂で子孫を増やしていった時代から雌雄の分化で多様性・競争社会をまねいたDNAはその筋書きどおりに多様性を社会に持ち込み、その役割を果たしているにちがいありません。同時に競争社会からはみ出て少数派たちが多数派に変わっていった場合かれらに主導権があたえられるわけです。障害者たちが必然的に増えていけば主導権をもつことになるのです。

日本の大学制度について

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-9-28 21:46

 わたしは日本の教育制度および文部科学省に対して憤りをおぼえ、腹立たしさしかありません。かれらに同調している国民にたいしても不信感をおぼえます。人間が試験の点数によって評価される仕組みこそ人権侵害ではありませんか?試験の点数のほかにその人をみる視点はいくらでもあります。視点を変えるだけでその人への評価はまったく変わります。

 口先では多様性をうたいながら、いざとなると学歴を持ち出し、人間の評価基準に依存するこの体質。それに疑問を抱かない人間が多すぎる。いつまで自分の視点をもたないのですか?いつまで権威の信仰者でありつづけるつもりですか?あらゆる権威はすでに内部崩壊しかけているのですよ。

 わたしは大学に入り、最初の講義の日から希望を失いました。当時、マスプロ教育と言われたように教室はすし詰めで座る椅子がないのです。大学側は受講する学生ははじめだけで後は減っていくことを見越してそれだけの席しか用意してなかったのです。何十人かは立って講義をきいており、大学側の予想どおり一ヵ月後には半分くらいになっていました。

 当時、法政大学は東大の植民地と呼ばれていたように東大から講師が派遣されていました。マイクを握り、顔をふせたままノートかテキストを棒読みする教授や講師がいました。かれらが学生運動家たちに吊るし上げを食らったのは当然でしょう。

 教育とは何でしょうか?

 生きることを教え育む学問、だとわたしは思います。

 生きるためには何が大事でしょうか?試験の点数でしょうか?

 試験の点数で会社や社会が良くなるのであれば東大卒ばかりを社員や公務員にすれば良いじゃありませんか?ところがそんなことをすればその組織は崩壊します。多様な人間がいてこそ組織は生存できるのです。

 生きるためにはまず食料と自然がいるのです。食料ははどうすれば生産が出来、口にいれることができるのでしょうか?自然の価値とはなんでしょうか?

 生きるためには健康が大事ですね?どうすれば健康を維持することが出来るでしょうか?

 生きるためには人間どうしのコミュニケーションが大事ですね。どういう姿勢であればそれを保つことができるでしょうか?

 以上のような基本的なことを教育の根底にすえていますか?

 これは文部科学省に問いたいことです。どんな答えをするかわかりませんが。

 ともかく、人を教えるにあたって哲学つまり基本命題を持たないのです。基本が抜け落ちているのです。

 これは今だに日本がアメリカの属国ということから生じているのです。

 

 

 

現代社会と性同一障害

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-9-27 2:49

 

 (性同一障害)という言葉はまだ新しくて馴染みがありませんが、平たく言えば(心と体の性が一致しない障害)ということになります。ペニスを持つ男の体でありながら女の体としての欲求がある、逆にクリトリスと膣を持つ女でありながら男の体としての欲求がある、あるいは両方が混合している状態です。従来の表現では(ホモ)や(レズ)、(両刀使い)と呼ばれたものです。これらを障害と名づけた社会にわたしは疑念をいだくと同時に社会の差別意識を嗅ぎ取ります。同時にこの言葉が定着するかあるいは否定されて別の言葉に取って代わられるかにも興味があります。また、精神病理学会という秘境の世界が迷いと混乱を生じているのを感じ取ります。

 オランウータンやゴリラの世界に性同一障害が存在するかどうかはわかりませんが、生物学的にいってもオスとメスは上記のような体の構造によって決まるというのが常識です。常識というのは政治・社会体制が変われば変わるもので真実ではありません。動物の世界にも性同一障害は存在するのかあるいはしていても発見されていないの、淘汰されて消えているのかわかりません。

 その前に(障害者)(健常者)という区別とも差別ともいえない言葉について考えます。結論をさきに言えば少数派は障害者にされ、多数派は健常者になっている(思想)から問われねばなりません。それは民主主義の多数決原理に基づいていて、それを修正するために(差別を無くそう)というスローガンが出てきたのです。社会の一員になれないから、障害者であり、それが増えてもし多数派になってしまえば、立場が逆転し政治体制はくずれてしまいます。それを防ぐためにも体制側は障害者を訓練して社会活動をさせ、(健常者側)に組み込んでいこうとしているのです。

 多様性という言葉があるように本来(性)も多様なものなのです。あらゆる(人間模様)があってしかるべきですが、(一夫一婦制)で管理している国家にとっては都合が悪く、オスかメスかはっきりさせたいのです。複雑な社会が産んだその模様は認めざるをえないが、認めると管理がむずかしいどころか不可能になる可能性もあるのです。

 そこに(性同一障害)といって、(性の多様性)とはいえない社会の苦悩を読み取ります。

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