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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

水も肥料も農薬も要らない野菜作り

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-23 8:36

 近所で自然農法を実行してる男性と知り合いました。石丸さんと言う方で、65才です。話をうかがって、一番驚いたのは山中に菜園を作っていて、肥料・農薬はおろか水さえやらないというのです。

 「水はどうされてるんですか?」

 と訊くと、

 「ほら雑草を野菜のそばにじゅうぶんに植えてますから野菜はその水を吸収します。また枯れ葉を畝の上に敷き詰めていますから水分の保全をしてくれますし、夜露がおりて水になり、畝の土に吸収されます」

 と淡々と話してくれました。

 自然農法で肥料・農薬を使わないのは知っていましたが、水も要らないというのは初めてでした。

 石丸さんの農園は道より三メートルも高い位置にあり、その北側は崖に近い状態で、土は赤土です。成育状態を見るとサトイモは根の部分が一般のものの二倍もあり、ホウレンソウ、大根、ごぼう、白菜などは野生の顔をしていてパワーがみなぎっていました。

 「でもここまでくるのに五年間かかりました」

 と彼は言い、

 「今では畑を耕したり草をぬくこともありません。畝の通り道に置いている枯れ葉を畝の上にのせたり、雑草の根から上の部分を切って苗のそばに置いたりします。雑草の根が耕してくれますし、葉っぱが肥料になります。わたしはナマケモノですよ」

 と言うのです。

 そう言いながらも私は彼の苦労がじゅうぶんにわかりました。畑の周りは竹垣で囲んでイノシシが入らないようにしていますし、枯れ葉を拾って運んできたり作業はいくらでもあります。でもそれは自分の王国をつくる楽しいものです。小中学生達にこの作業をさせればきっと顔を輝かせることまちがいありません。

 この農法は家庭菜園には通用するが大規模農園では無理だ、ということですが、このやり方が増えていけば肥料をやって害虫が増え、その結果、農薬を大量に使用する事も減り、自然にとっても人間にとってもありがたいことです。

 わたしは彼の教えをいただいて、自宅で毎日自然農法に取り組んでいます。

超自然の免疫力とは?

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-22 19:01

 超自然は生物を雌雄に分離し、競争原理を働かせてかれらを増殖・繁栄させていった。その中で人類は知能を発達させ、文明を発明して天敵を遠ざけ、生物界の頂点に立った。異常に繁栄ていった。資本主義・多数決原理を維持するために快楽や利便性を利用した。原爆・原発を作り、除去するのに十万年以上もかかるという放射能まで作り上げてしまった。ここで超自然はこのままでは超自然まで破滅させられると考え、ベクトルを変えることにした。人類の異常増殖を抑えなければならないと判断したのだ。消化器官や皮膚、肺を通して汚染物質を人体に吸収させ、あるいは体内で変化させて生殖機能にブレーキをかけた。性同一障害者、認知症患者、草食系人間を増やし、人口の抑制をしていった。最終的には単細胞時代に戻せばいいのである。単一種になれば、感染症にかかった場合は全滅するし、競争原理も失って弱体化するだけである。そうなれば超自然をおびやかすこともない。

 わたしは現代という時代をこのように理解しています。超自然を(神)と名づける人もいますが、わたしは宗教が嫌いだから、X(エックス)と名づけたい。Xは存在すると信じていますが、特定するのは不可能かもしれません。自然の総体をコントロールしているものです。

 超自然の免疫力と言えるものです。

「片割れ」?次回作のプロローグ

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-15 18:05

 人間がアメーバのような単細胞であった時代、雄と雌の生殖器官はないというよりまだ未発生の段階であった頃のこと。動物と植物は分かれておらず、性別もなかった。細胞分裂で二つに割れ、際限なく増殖するわけだから性差は不要であった。ところが大きさ小ささ、高い低い、あるいは暑さ、寒さなど差異と格差がたがいにエネルギーを産み多様性をもたらすこと、それがひいては地球の繁栄になることを超自然は知った。それは普遍的原理になり、生物達はそれに支配された。その指示によって生物は動物と植物に分かれていった。次に生殖器官を発生させた。動物達は雄と雌に別れ、植物は雄しべと雌しべをつけた。初めはその二つは同じものであったが突然変異が起こり、交接・交配して多品種が生まれ、競争原理が生まれたのだ。超自然の狙いであったのだ。精嚢と卵巣も本来は一つのものであったが動物の体の中で分かれて誕生した。クリトリスとペニスも分かれて発生し、付属器官を広げて発達していった。それが男と女である。その二つはその状態で世に出てしまい、異性を求め続け繁殖していった。元の片割れを求め合うことは本能として残り、死ぬまで狩と求愛行動をつづけ、結合するまで安定しなかった。激しさのあまり殺し合いをすることもまれではなかった。

木の葉の生涯

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-14 12:26

 いつも散歩する山道に車で出かけ、枯葉を集めました。十センチほども積もった枯葉は乾いていて、触っても気持ち良いものです。両手で包むとサラサラしました。薄い朝日をあびながら松葉ホウキではき集め、両手で大きなビニール袋に入れる作業はすがすがしく爽やかなものでした。田舎生活に感謝しました。10袋も詰めるとワゴン車に積んで自宅に持って帰りました。

 自宅の畑には畝が30ほどもあり、土の表面に枯葉を敷くつもりでした。前回は耕した土の中に入れてしまい、失敗でした。(不耕起栽培)の本を読むとそれでは枯葉の活用が出来ないから、土の表面に置くということでした。それでは風に吹き飛ばされるのではないか?と案じることがあって埋め込んだのですが。

 一輪車に積んで枯れ葉を運び、畝の上に置いていきました。土に毛布をかぶせてるような気持ちになり、いい気分でした。風が吹きました。枯れ葉を見ると飛ばず、畝の土に逆に張り付いているのです。そうだ、舗装された路面の場合には飛んでも地面の上では飛ばないんだな。

 なぜだろうか?

 木の実は丸くて、出来るだけ遠くにまで転がるようになっている。それは遠くにまで行って芽を出し、種を広げるためだ。葉は木の下の地面に落ちる。大事な仕事があるから動いたり遠くに行ってはいけない。日光をさえぎり湿気を保ってミミズやバクテリアに住処をあたえ、かれらが土を団子状にしたり枯れ葉が分解していくのを助けている。枯れ葉の縁がギザギザ状になったり内側外側に曲がっているのは風が吹いても木の下から離れないようにするためである。腐葉土になってスポンジ状になるのは根に養分を吸いやすくするためである。

 枯れ葉になる前は若葉であった。その頃は光合成を盛んにして木に養分を与え、酸素を出して動物たちの生命を守り、大気の汚染物質を付着させて雨とともに地中に戻していた。

 老いて枯れ葉になってもきちんと役割を果たし、死ねば養分になって木の成長を助ける。吸い取られて本体の中に戻り、回帰し循環している。

 もの言わぬかれらだが、自然を利用するだけの人間達よりはるかに価値があるのではないか?わたしも人間の一員だが、自然への恩返しをしたい、と考える。やがて枯れ葉みたいに本体の中に回帰するのだが。

 

 四十年前のことです。わたしは神奈川県に住んでいて、フリーターの生活をしていました。東京都の東中野にある新日本文学という学校に小説を学ぶために通っていました。そこは歴史的にも野間宏や椎名麟三などもいた由緒ある学校で、今思い返せば本来の学校の姿を示していました。まだ無名の文学者や評論家を講師に招いて、労働者や身体障害者の方達が生徒になって和気藹々の雰囲気で語り合い、和やかなものでした。講義の後は必ず飲み会があって近くの飲み屋にみんなで行きました。酔っぱらって言いたいことをしゃべり、今ではすっかり有名になったヤンソギル(直木賞候補)さんもいました。

 今思い返せばその時に在日の講師がいて、日本は東洋文明と西洋文明のぶつかる国だ、と話されその言葉が思い出されます。そんなものの見かたがあるのだと感心しましたが、今では日本、韓国、台湾、フイリピンがアメリカの属国になり、東洋文明は西洋文明にすっかり支配されています。中国や北朝鮮の社会さえも西洋文明に支配されています。

 人権民主主義が定着してそれに違反するものは(国賊)みたいな風潮が出来上がっています。たしかに新聞紙面から孤独死や餓死の記事がすっかりなくなり、福祉や生活保護の体制がととのったことはまちがいないでしょう。それは飢えや貧困による暴動を起こさないための為政者の政策ですが、近頃街中や住宅街を歩いていてもどこかおかしい雰囲気があります。チリ一つ無いきれいな道路、話し声も大声もケンカもない街、パチンコ玉も音楽も焼き鳥の匂いも煙ももなく音楽もない街、なにか変だ。人間は歩いているのに気配や空気さえない。まさに静止画像のような世界を感じます。

 これは何だろうか?と考えると農耕民族の国に狩猟民族の人権民主主義と文明が無理に臓器移植され、大手術の後に活力がすっかり失われたせいではないか。近代に入る前の日本には人権という言葉の代わりに(もののあわれ)というものがあり、競争もないどこか楽天的な国でした。今は民主主義と言われながらも実質は封建主義であり、仕事を二つも三つもこなしてやっと生活してる人がたくさんいます。昔の奴隷にひとしい労働環境です。他方では公務員という貴族階級がいます。

 わたしたちはうまく騙されているのです。

自然の知恵にはかなわない!

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-3 12:39

 自然農法に挑戦して3ヶ月くらいになりますが、期待はずれでした。ホウレンソウは肥料をやった畑の時の半分くらいの成長で、根が固くて食べられません。移植したサトイモもほとんど生長せず、大根、ごぼう、カリフラワー、野沢菜なども大きくなりません。よく考えましたが、古い畳の腐葉土では元素がかたよっているのではないか?山のクリやドングリが大きく育つのは色んな木の葉が混じって多様性があり、元素のバランスがうまくとれているのではないか。

 そこで今度は休ませていた畑をスコップで掘り起こしはじめました。山から取ってきた枯葉をまき、土をかぶせていきました。これで春まき野菜の生育に間に合えば、結果が出るでしょう。

 自然農法では雑草はとらず放置するのです。わたしは小さなホウレンソウを取り囲んで伸びている雑草をみつめました。

 (君たちは肥料もやらないのによく伸びるねえ。どうしてなの?)

 (もともと肥料がなくても成長するようにできているのさ。野菜くんたちは人間が肥料をやるから依存症になってるんだよ。太陽と水さえあればぼくたちは元気なの)

 わたしは大きく伸びたタンポポに声をかけました。

 (この前、君をオヒタシにして食べてみたけど、美味しくなかったよ。硬くてサバサバしていて味もない。この屋敷のあちこちで元気良く伸びているから全部切ってやろうと思ってるんだ。良いかい!)

 (ぼくたちにだって生きる権利があるし、人間達といっしょに生きてるんだよ)

 ませた口をきくな、と思いながら話を聞いていました。

 (ぼくたちといっしょに生きてる、ってどういうことだい?おまえなんかいなくったって俺は生きていけるんだよ)

 (そこをわかってくれないの?こうして話をしてるとオジサンが炭酸ガスを出し、ぼくたちはそれを吸ってる。お礼にぼくたちは酸素を出しているから、オジサンたちはそれを吸ってるじゃないか。おたがいに元気のやりとりをしてるんだよ。こんな関係がなくなったらどうなるの?)

 タンポポは茎をまっすぐに伸ばして言いました。

 わたしはすっかり忘れていたことを思い出させられ、絶句しました。

 これから目立ちすぎる雑草だけ切って、あとは残し、緑豊かな庭にしよう!と考えました。

人間信仰をすてる時代

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-1 11:27

 今日の毎日新聞に山極寿一氏がこんなことを書いています。(人間の危機管理とは何か)というタイトルで東北大震災を例に出し、結論は(今の日本に必要なのは、人間の安全を保障するのは機械でも技術でもなく人間の心だという事実に立ち返ることである)です。

 彼は京都大学教授ですが、わたしはこの考えに何か一歩遅れた不甲斐なさを感じます。つまり、あなたはまだ(人間信仰)を捨てきれずしがみついているのですか?と反論したい。学会の権威にまだしがみついているのですか?大学という業界から抜け出せない限りあなたは自由な発想も浮かばないし、真実を書くことも行動することも出来ないのですよ。まずそれに気づき、自己反省してから行動してください。

 今の日本に必要なのは(人間信仰)を捨てることです。人間の知恵を一度捨てることで反省し、自然の知恵に学ぶしかないのです。汚染が消えるのに10万年以上もかかる原発をつくり、解決のめどさえつけきらない人間たちに学ぶものはありません。人間以外の生物は生活の中で自然破壊はいっさいしていません。そこに学ぶヒントがあります。かれらは動物も植物も生活と生命を循環させ、消せない汚染物質はいっさい出していません。人間だって日本では江戸時代までそうやって生きてきたのです。

 すべての発端は西洋文明にあり、キリスト教という一神教にあります。

 東洋の国は西洋文明の侵略を受け、人権民主主義の臓器移植をされたのです。臓器移植ですよ。ケネディさんが日本に来てマスコミが賞賛していますが、アヘン戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、パレスチナ戦争、イラク戦争など欧米が東洋を侵略した戦争はおどろくべき数があります。なぜ他国に入ってまで戦争をするのかアメリカや欧米はそのことを研究し反省してください。そのことを踏まえても今もとめられるのは自然の知恵に学び、東洋思想を復権させることです。

 

箱庭の街ー詩

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-26 10:04

 頭の上に白っぽい空が広がり

 団地の家々は箱庭の中で隙間なく並んでいた

 白い道と白い壁

 ゴミ一つない庭と道

 猫も犬も小鳥さえ声を出さず姿を見せない

 白い街だった

 人の姿も子供の声もカレーの匂いもなく

 自転車も車も見かけないが

 廃墟なのかそうではない

 清潔でルールを守るきちんとした街なのです

 真面目な人ばかりです

 でもなにかおかしい

 なんだろうか?

 そうだこれはディスプレイの中から出てきた静止画像にちがいない

 仮想の街にちがいない

 静止画像の街の中をぼくは歩き、笑顔の男を郵便受けに押し込んでいった

 ひまがあったら遊びに来ませんか!

 と男は叫び、イノシシの焼肉をいっしょに食べようよアイガモたちと遊ぼうよ

 オカリナ・コンサートもしたよ

 赤土をこねて久土をつくったからもうすぐ餅つきもするよ

 男は最大限の笑顔を見せて叫びながら

 木枯らしに吹き付けられながら、捻じ曲がって押し込められた

 わたしも仮想人間になりかけていた

 バイクで走り、止まっては

 狭い階段と門扉の穴を出入りして回った

 ネズミのように動いていた

 初めて声を耳にした

 玄関先のすみで丸い枯葉が踊り床に体をこすっていた

 大晦日はもう一ヶ月先なのよ

 新しい年を迎えるのよ

 きっと良い年になるよ

 枯葉は舞いながら男と話していた

 

中国よ、多様性国家をめざせ!

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-7 9:46

 尖閣列島への抗議行動、日本商店の破壊、日本商品への不買運動が下火になったと思うと、天安門の真ん中でウイグル人ののった車が炎上した。その何日前もちがう場所で似た事件があった。

 予想されていた事件の続発が今後も予想され、PM2.5の大気汚染もふくめて成長期の国には波乱が待ち受けている。現在、国家の体制をなしている国はすべて民族問題に直面したといっても過言ではない。

 黒人のオバマ氏が大統領をつとめているアメリカだって、歴史をひもとけば少数民族にとっては受難の歴史であった。そのことを知っている人さえ少なくなっていて、歴史から消されることだって考えられる。100年ほども前、奴隷商人という者がいてアフリカにすんでいた黒人達を捕らえた。また、かれらを安く買い、アメリカ南部の農場主に高く売り、儲けた。敷地内に住まわせて綿花の栽培や刈り取り、家事労働などさせた。(アンクルトムスケビン)という小説に詳しく書かれていて、この作品は世界中の人人に感動を与えた。黒人達は悲惨な生活を送っていた。

 それから黒人達に公民権運動が起こり、アメリカ政府と闘いすごい犠牲をはらって(公民権)を勝ち取った。オバマさんが大統領になったということは、(アメリカは人権国家です。中国や北朝鮮、その他の抑圧国家とはちがいます。抑圧国家は人権国家に変えねばなりません)というアメリカの国家侵略のかっこうの理由付け・正当化に道筋をつけることになるのである。

 映画(夜の大捜査線)は黒人差別問題をテーマにしながらサスペンスを取り込み、素晴らしい作品になった。主人公はシドニー・ポワチエという黒人の名優であり、テーマ音楽の歌手はレイ・チャールズというこれまたすごい黒人の歌手であった。この作品はアカデミー賞を何本ももらっている。

 DVDにもなっているので、ご覧になると感動することまちがいありません。

 前のブロッグで(多様性の時代)を書いたように時代はすっかり変わっている。多数派による少数派の支配、一民族による他民族の支配や独裁、他国への侵略は必ず失敗し、政権側の崩壊に通じる、そのことが法則みたいになっている。

 中国よ!あなたは古い歴史と知恵のある国なのだから民族問題や環境問題にきちんと取り組んでください!

 

 

 毎月、病院に通っている。血液検査を受けて、30項目ほどのデータを出してもらう。中性脂肪以外はほとんど合格点であるが、それは薬を毎日12錠も飲んでいるおかげである。飲まなければ血液が濃いくなり、細い血管が詰まって多臓器不全で死ぬことになる。まあ、薬のおかげで(死)の猶予をもらっているわけであり、誰でもいつかは死ぬわけだから早いか遅いかの違いでしかない。

 わたしを診察してる医者に訊いてみた。

 「先生、安楽死の手続きはここでもできるのですか?」

 60にちかい彼はおどろいたのか、しばらく返事をしなかった。

 「それは入院してる状態じゃないと出来ません」

 「はあ、そうですか」

 とこたえた私はその場ででも安楽死の手続きをしたかったのだが、出来なかった。次は献体について尋ねた。献体をした場合、葬儀は病院がするかどうかだったが、死体は必要がなくなった段階で遺族に返すと言うことだった。

 その二つの答えをもらって納得した。

 バイパス手術をしてもらった病院、その病室のベットに鼻にチューブを差し込まれて(食事をしていた?)患者がいた。呼吸が苦しかったにちがいない、彼はよくチューブを手で外した。看護婦が何度も注意をしたが彼はやめず、ついにはボクサーがつけるグローブを両手にはめられた。これでは指が使えず、彼は一日中眠っていた。

 あれから一年もたつが、彼はどうしてるだろうか?生きているか?死んでいるか?

 俺はこうして生きていて人間並みの生活をしているが、(死)の不安がよぎる時がある。ある意味で入院中は死ぬことが許されていたが、娑婆ではそうはいかない。(死)は忌み嫌われ、戒名をつけて消さなければ生きてる者たちの邪魔で迷惑な存在なのだ。だから、入院すると(生)から解放されてすごく気分が楽になる。

 今日はいつもの山道を散歩しながら、(死ぬのではない、この世を消してやるのだ)と考えた。これは(現象学)に凝っていた友人からの発想であるが、正直、そんな気分になった。死ねば意識が消え、見ることも聞くこともできなくなるから、外部世界も消えてしまう。

 アメリカとの戦争に負けた日本は(死)にたいしてすっかり臆病になった。武士道や特攻隊を美化するわけではないが、もっと積極的に死を受け入れても良いのではないか?これまでいろんな人々に支えられ良い思いをさせてもらったのだから、世間にたいして恨みがあるわけではないが、(もう十分だ、満足した)と三行半をつきつけてやりたい、いつでも。

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