ブログ - 20230924のエントリ
昼間は暑くて扇風機をかけていたが、昨夜は寒く、目が覚めて、毛布と掛布団をかけて寝た。考えていたとおり、季節は変わり、また冬が来て、寒い!というのである。こんなことを、同じことを繰り返しながら自分はあの世にいこうとしていることに虚しさをおぼえる。が、これが人の生き方であることであり、季節が巡ることで自然が生きている、そして自分も生きていることに感謝すべきであろう。
この時期になると、決まって、草むらで鳴いていたコオロギは床の下にもぐって鳴きはじめるのである。しかも一匹が、陽が暮れると、泣きはじめる。オスであろう、種付けの時期を失ってしまい、それでもメスを呼びつづけ、亡骸になるまで鳴くのである。
まるで自分みたいである。いやそっくりかもしれない。
今日の日曜日はいつもの日曜礼拝の日であるが、昼からアルバイトがあることもあって、あまり行きたくない気がしている。二つのキリスト教会に通っていて、ひじょうに勉強になっているが、もの足りなさをおぼえるようになったのである。それはトップ・ダウンで神や聖書の言葉を教えるばかりで、今の話についてどう思いますか?などは問いかけず、信者の側に立っていないからである。信者たちがどのようにして神を信じ、祈っているのかもわからない。どんな悩みに立ち向かっているのかもわからない。自分がどのようにして向き合うべきか?の参考も見いだせない。それらは牧師に聴けば教えてくれるが、問題提起をして議論をさせることで活発化させたほうがいいのではないか?
数日前のヤフーのニュースで、養老孟子さんが、日本人の場では悩みをうちあけたり本音を出したりすることが少ないし、少なくなったと話していたがその通りだと思う。そうかと思うとマスコミに感化されてセクハラ、パワハラ、などにはすごく敏感なのである。それで世論が出来上がってしまう。
ともかく時代の考え方が一本化されず、世界の出来事に振り回されており、なにを信じれば良いのか?わからなくなっている。歳の若い人たちは精神が錯乱してしまうのではないか?
自然に立ち返り、床下のコオロギみたいに深く瞑想すべきではないか。